2017年06月12日

落ち穂の会集会の案内

ウィリアム・ウッド師を招いて、下記の日程で「落ち穂の会集会」を開催します。
キリスト教のカルト化の予防に興味がある方、カルト化被害によるカウンセリングを必要としている方、ご参集ください。
当会は自由参加です。
ただし、趣旨に合わない方、勧誘目的の方、自己実現をしたい方はご遠慮ください。
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日時:2017年6月25日(日)
   14:00〜16:00
場所:東京都日野市 多摩平の森ふれあい館(JR中央線豊田駅北口徒歩7分)
講師:真理のみことば伝道協会 ウィリアム・ウッド師
内容:「キリスト教会における霊的権威の問題」エペソ4:11−16
費用:無料
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お問い合わせ:CVSA問合せ窓口
       mail:christ-sien★cvsa.jp(★を@に変更して送付ください。)
       TEL:070-6983-1705(平日 9:00〜16:30)
【お知らせの最新記事】
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2017年06月03日

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart6

【奇跡に驚き無防備になりがち真理への愛失わせる惑わしも】

 心の病で苦しんでいたある男性の話です。カウンセリングを受けても、薬を飲んでも、病気が治らず、挫折していました。そんなある時、「奇跡が起こる」という噂の教会を知りました。ワラをもつかむ思いで教会の門をくぐりました。病気のことを話すと、「必ず治る」と言われ希望を持ちましたが、薬を捨てさせられ、断食させられ、献金を強要されてしまったのです。しかし、奇跡が起こらないばかりか症状が悪化する一方でした。男性は教会に行くのをやめようと思い、牧師に話しました。すると「この教会をやめる人は、皆、死ぬんですよ」と宣告されたということです。
 人間はともかく、「しるし」を求めます(Tコリント1章22節参照)。特に、大きな悩みを抱えている人は、その傾向が強いと言えましょう。聖書は決して、奇跡を祈り求めることを禁じている訳ではありません。もちろん、聖書の神は全知全能で、今も奇跡をなしてくださるお方です。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」と語りかけてくださる主です(詩篇50章15節)。
 しかし聖書はまた、奇跡が起こるかどうかは神の摂理の中の問題であることを示しています(使徒4章24〜30節、ローマ書15章17〜19節参照)。真の奇跡は、必ずしも人間の要求どおりに起こるものではなく、主がご自身のみこころ(計画、目的)をなすために、ご自分が良いと思われる方法とタイミングで行ってくださるものです。(Tヨハネ5章14〜15節参照)。
 ですから、いかなる場合にも「奇跡」を保証するグループは、神の主権の領域を犯しており、聖書から逸脱しています。奇跡は、それが神のみこころにかなった時にのみ、起こるのです。
 では、奇跡が起こる教会は根も葉もない噂に過ぎないのでしょうか。確かに何かが起こっているのでしょう。「問題が解決した」「病気が治った」「解放された」と実感し、大胆に証しをしている人がいるでしょう。しかし、不思議なことが起こっているから健全であるとか、聖書に忠実であるとか、神の祝福を受けていると、一概には言えません。サタンの力による「しるし」もあるのです。
 「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します…不法の人の到来は、サタンの働きによるものであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(Uテサロニケ2章3〜4節、9〜11節)。
 奇跡を見せつけられた人間は、驚きが大きければ大きいほど、無防備になりやすいものです。「これだけの奇跡を行うことのできる人(団体)は、きっと神に導かれているのだから、その教えもすべて神から出ているに違いない」と考えます。最終的には、奇跡をなした人の言うことを鵜呑みにするようになるのですが、そこで、「真理への愛」が失われ、「悪の欺き」や「惑わす力」が働き始めるのです。結局のところ、どんな不思議が起こっているかが最大の問題ではありません。聖書の真理が正しく語られているかどうか、これこそが重要なのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月13日号


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2017年05月27日

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart5

【「聖書を用いるから安心」か?指導者の解釈の絶対化は危険】

 カルト教団(あるいはカルト化した教会)が、聖書を武器として使うことがあります。指導者は、自分の勝手な、人間的な考えや計画を押し通すために、あるいは信者をコントロールするために、聖書を引用する訳です。「私よりも先生のほうが、はるかに聖書に精通しているのだから、従うしかない」と、信者は思考停止になり、言われたとおりの行動を取ります。
 もちろん、指導者として信者に聖書教育を施すことは必要です。しかし、それがただ、聖書の権威を振りかざし、信仰に有無を言わせず服従させるというやり方であってはなりません。十分な時間をかけて、聖書を説きながら、信者に考えさせ、納得させるのです。聖書の神を信じる指導者なら、強引に計画を進めることなどをせずに、聖霊が指導者の考えの正しさを信者に示してくださるまで、忍耐強く待つはずです。そうした聖霊の働きの中においてこそ、信者がキリストを見上げることを学び、神のみこころを祈り求めるようになり、自立した信仰が養われていくのです。
 「聖書を引用しているから」という理由で、宗教団体(教祖)の教えを鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。福音書にあるように、悪魔でさえ、聖書を用いました(マタイ4章1〜11節参照)。また、パリサイ人たちも、独自の律法主義を人に押し付けるために、よく聖書を勉強し、引用しました。聖書を調べておきながら、パリサイ人たちは、その中心的存在であるキリストを認めませんでした。「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」でした。聖書が正しく理解され、語られる時に、その結果として、人々はキリストのもとに来ます。キリストとの出会いを経験し、キリストとの個人的な関係を築いていくのです。それ以外の結果をもたらす教えは、聖書の悪用なのです。
 パリサイ人の聖書研究の、もう一つの誤りは、自分たちの言い伝えの重視です(マルコによる福音書7章1〜13節参照)。パリサイ人は、先祖から受け継いだ伝統を、聖書と同等視していました。結局のところ、彼らの聖書研究には、様々な「付属品」が付いていた訳です。これも今日、多くのカルトに見られるパターンです。例えば、「聖書に忠実な組織」という看板を掲げているものみの塔協会は、聖書だけでは不十分だという立場を取ります。「忠実で思慮深い奴隷」の助けがなければ、どんなに聖書を読んでも分からない、と言うのです。こうして、協会の刊行物(雑誌・書籍)が聖書と同等の権威を持つものとなります。
 しかし、そのような発想プロテスタントの信仰を否定するものです。宗教改革の三本柱は「恵みだけ」「万人祭司」「聖書だけ」です。プロテスタント・クリスチャンは常に、「聖書だけで十分である」と言う信仰を明確にし、大切にします。
 これに対してカルト化した宗教団体は、「私たちの教祖の解説書を読まなければ聖書を正しく理解できない」とか、「私たちの先生のメッセージを聞かなければ、救われるために必要な知識が得られない」とか、「教会が伝えている福音はもう古いから、新しい啓示が必要だ」というような主張を繰り返すのです。
 「聖書を用いているから、安心だ」という考え方は単純すぎます。自分の考えを権威づけ、正当化するために聖書を利用する人々が多くいます。その教えによってキリストの栄光が現されているか、そのメッセージは聖書の全体と調和しているか、それとも聖書の一部しか取り上げられていないか、などを注意深く考えて、冷静な判断をしなければならないのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月6日号


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