2018年03月18日

小さな事にも忠実だったから「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書19章より〜

『小さな事にも忠実だったから−ミナのたとえ−』ルカの福音書19章1〜27節(新改訳聖書使用)

ザアカイの救い

 神のご計画があるゆえに、エルサレムに向かっていたイエスは、手前のエリコの町に入られた。エリコに近づく道ばたでは、盲人がいやされる奇蹟が起こっていた。19章は、取税人ザアカイの救い(1-10)、ミナのたとえ(11-27)、主に用いられたろばの子(28-35)、エルサレムに近づき喜んで賛美する弟子たちとエルサレムを思い涙する主イエス(36-44)、宮をきよめて毎日宮で教えられるイエス(45-48)という構成で書かれている。
 エリコの町に、ザアカイという取税人のかしらで金持ちがいた。多くの人々が押し寄せる中、背が低い彼は、イエスを一目見たいと、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。取税人というのは、ローマから税金を取り立てるよう委託された人である。当時のユダヤはローマの属国だったため、ローマに税を納めていた。取税人は、ユダヤ人でありながら異邦人のために働いている人とみなされ、また、規定以上の税額を徴収することによって私腹を肥やしていたため、同胞のユダヤ人から嫌われ、罪人とみなされていた。ザアカイはそのような取税人のかしら(元締め)であった。
 さて、前章で、イエスは、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(18:24-25)と言われたが、これは、「律法の戒めはみな、小さい時から守っている」と自負していた役人に、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(18:22)と言った際に、役人が大変な金持ちだったため、非常に悲しんだのを見て、言われた言葉であった。
 イエスの視界にザアカイが入った時、イエスのほうから声をかけられた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(19:5)思いもよらず個人的に、しかも名前を呼んで声をかけられたザアカイは、大喜びで急いで降りて来てイエスを迎えた。人々の目は、あいかわらず冷たかったが、もう気にならない。ザアカイは立ち上がり、イエスに言っている。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(19:8)このように言う金持ちのザアカイに、イエスは、「きょう、救いがこの家に来ました。…」(19:9)と言われた。
 前章の金持ちの役人には、「持ち物を全部売り払い…」で、できない様子に「裕福な者が神の国にはいることはむずかしい。」と言ったイエスが、「私の財産の半分を施す」と言ったザアカイには、「救いが来た」と言われたのである。何が違うのか。パウロは、「たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Tコリント 13:3)と言っている。主イエスが金持ちの役人に言ったのは、「財産全部を貧しい人たちに分け与える」という外面的な行為を言ったわけではない。ザアカイは半分でもOKだったが、役人が、たとえ役人が「また稼げばよいか」と財産全部を差し出したとしても、また、イエスの言葉を半分受け止めて、妥協案として「じゃあ、半分(十分ありあまるほどの財産の中、自分のために半分になっても十分だし)を分け与えます」と応じたとしても、受け入れられなかっただろう。アナニアとサッピラが受け入れられなかったように。
 役人とザアカイ、決定的に違うのは、その心根である。お金(世の楽しみや心配事)を見ているか、主イエス以外目に入らないほど神を愛しているか、である。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)これは、「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」と表題がついているが、ダビデ王(金持ち)が詠んだ詩である。
 同胞人から嫌われ、罪人呼ばわりされていたザアカイは、取税人のかしらとしての地位があり、お金持ちであったが、「だまし取った」(19:8)罪意識を持っていた。イエスが多くの人がいる中、自分に目をとめ、しかも泊まる家に選んでくださった、それだけで十分だった。稼いで得た財産の半分を施し、また、だまし取った物は、四倍にして返すという贖罪を語ったザアカイの言葉は、「悔い改めます。」と言葉で言わなくても、土下座しなくても、悔い改めの心が背後に伺える言葉である。真の悔い改めは、被害を与えていれば贖罪の心が伴うものである。そのようなザアカイに、イエスは言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(19:9-10)罪により失われていた魂が、イエスに出会ってその愛によって救いに預かったのである。
ミナのたとえ
 この後、これらのことに耳を傾けていた人々が、神の国がすぐにでも現われるように思っていたので、イエスは、ひとつのたとえを語られている。人々は、ザアカイが救われたように人々が救われ、いやしが起こっている奇蹟を見て、エルサレムにもうすぐ行かれるイエスが、エルサレムに乗り込み、神の国を打ち建てると思っていたのである。そのような状況に、イエスは、ミナのたとえを語られた。
 身分の高い人が王位を得るために、十人のしもべにそれぞれ1ミナずつ与えて、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」(19:13)と言い残して、遠い国に旅に出る話である。マタイ25章にあるタラントのたとえと似ているが、マタイのほうは、能力に応じて異なる金額を預けていたが、今回のたとえは、みな同じ額である。1ミナは100デナリ(1デナリは1日分の賃金)、1タラントは6000デナリに相当する。タラントのたとえは、「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」(マタイ25:14)と天の御国について語られていた。ミナのたとえは、神の国はすぐに現れるものではないということ(主人がいなくない間のしもべの過ごし方)が語られている。主観によって主人を恐れて1ミナをふろしきに包んでしまっていたしもべは、「悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。」(19:22)「私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」(19:27)と、その人自身のことばと行動によってさばかれている。いくら「ふろしきに包む」という丁寧さを繕っていても、そういうことを要求はされていず、何にもならなかったのである。
 私たち主イエスのしもべは、等しく聖霊を預けられて、働きを委ねられている。たとえでは、主人が王位を得るために遠い国に旅立っている間、国の建設のために、忠実に商売し(どんな商売をするかはしもべに委ねられていた(15))、十ミナをもうけたしもべは十の町の支配権を与えられ、五ミナもうけたしもべは五つの町の統治権を与えられている。このたとえだけを見ると、もうけないといけないのかとなるところであるが、このたとえは金銭的な成果を言っているのではなく、忠実に仕える心を言っているわけである。与えられている聖霊とともに歩むと、主に会う時には、何かしらの実ができている(何人伝道できたか、人を救いに導いたかではない、人が救われるのは聖霊の働きであり、種を蒔くと実りは人手によらずなるものである)。聖霊を与えられて、働きを委ねられていることをかみしめて、主イエスに会う日を待ち望みつつ、歩んでいこう。
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フォローアップ礼拝メッセージ 提供:落ち穂の会


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2018年02月26日

3月のフォローアップ礼拝(お茶の水)

下記の日程で、3月のフォローアップ礼拝をおこないます。
カルト化教会を通ったゆえの悩みをお持ちの方、イエス・キリストへ心からの礼拝を捧げたい方、歓迎いたします。

3月24日(土) 14:00〜16:00
お茶の水クリスチャンセンター 307

「聖書で読み解くカルト化」講座メッセージがあります。

相談がある方は、礼拝後、個別に時間を取ります。(要予約)

お問い合わせはCVSAまで。 
問合せ
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2018年02月25日

義と認められる祈り「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書18章より〜

『義と認められる祈り−自分を高くする者と低くする者−』ルカの福音書18章1〜14節(新改訳聖書使用)

失望せずに祈ること

 17章では、「信仰を増してください」(17:5)と言う使徒たちに、主イエスが「なすべきことをへりくだってしなさい」と教えられていたが、こつこつと、なすべきことをなそうと心がけつつ、信仰生活を送っていると、うまくいかないことにぶつかり、ふとしたことで、「このままでいいのかなぁ」「祈りが足りなくてこうなっているんだろうか」「私にはもう無理だ、何かどこかで間違ったに違いない」などという思いがやってくることがある。時には人を通じて、やってくるかもしれない。その思いにとらわれていくと、失望→絶望→信仰をやめたくなる の迷路に入り込んでいく。
 そのように状況に左右され、失望しがちな私たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、」(18:1)主イエスは、たとえで話された。不正な裁判官のたとえである。神はいつまでもすみやかに夜昼神を呼び求めている信者の訴えを放っておかれることをせず、正しいさばきをしてくださるお方だから、あきらめずにひっきりなしに祈れ、とイエスは弟子たちに教えられている。やもめという立場が弱い者がたとえに出されている。やもめは、裁判官に、対人問題(「私の相手をさばいて…」(18:3))に関して訴えていた。

自己顕示欲
 対称的に、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して、次のような祈りについてのたとえが語られている。パリサイ人と取税人の祈りのたとえである。パリサイ人たちは、自分たちはよく祈っている者だと思っていただろう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(18:11,12)「ほかの人々のように」と他すべてを見下し、自分が選り抜きんでていると思っているのである。これは、御霊の実ではなく、サタン的性質である。パリサイ人については、「見えのために長い祈りをする」(マタイ 23:14)とも言われているが、ここでは、宮での心の中での祈りであり、人に見せるための長い祈りについてではなく、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している心が取り上げられている。「私は罪を犯したことがない。長時間祈るし断食もよくする。献金も神の分として律法に規定されている十分の一をしっかり行っている。」「私は祈ってなすべきことをみなしているし、伝道のために迫害や苦しみにあっているが、何があっても信仰によって進み続けている。皆さん、私を見て私のように信仰を働かせて下さい。」一見、強い信仰の持ち主のように思うかもしれない。神の本質を知らず、「なすべきこと」をはき違えると、他人をも見下すようになりかねない。聖書でいうところの「罪」を犯さない人間はいない。信仰者であっても許された罪人である。祈りであっても、断食であっても、献金であっても、行いを誇ること自体が、慢心である。パリサイ人の祈りは、信仰的な自分を神にアピールしている。「神」の語を使っていても、心は自分でいっぱいだ。
 半面、取税人は、罪を犯してしまう自分の弱さを熟知していて、全知全能の神にあわれみを乞うしかなかった。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」自分では変われない、むせび泣くように胸をたたいて、言葉があふれたような心からの祈りであった。
 パリサイ人たちだけでなく、人間は誰しも、人に認められたい、特に指導者や神など、上位にある者に承認を得たいという欲求が存在する。貪欲になり度が過ぎていくと人を落としても自分を引き立たせるようになっていく。マズローの5段階欲求説では、下層から「生理的欲求」、「安全への欲求」、「愛・所属への欲求」、「承認への欲求」、「自己実現への欲求」と人間の持つ欲がピラミッド式に上へと描かれている。マズローは、晩年第6欲求として自己超越欲求(自分のためだけでなく、他の人々や他の者を豊かにしたいという欲求)を発表している。神のみこころは、自己欲求が満たされ、かつ、神の似姿の第6欲求にシフトしていくことである。

承認欲
 28節では、弟子たちの「承認欲」からの発言があるが、主イエスは、根気強く愛をもって教えられている。「すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』」
 パリサイ人と弟子たちの自己承認欲には、違いがある。違いはいろいろ挙げられるが、神の言葉をも自分の考えで曲げ、 神を利用しても、自己一致(自己概念〈そうであるべき自分、自己イメージ〉と自己経験〈あるがままの自分〉が一致している状態で、気持ちに嘘がなく、純粋であること。幼子のように…)がないままに自己を達成しようとする自己顕示欲か、自分に痛い所や弱さと向き合って、自分に必要な欲が満たされていないことを神に持っていき、主と共に歩む自己成長の道を選んでいくかがその違いの一つである。
 この時点(十字架前)での弟子たちには、目の前のイエスに従い、みこころに応えて、イエスに承認されたいという思いがあった。そのような弟子たちに、主イエスは、自分は十字架にかかって世を去ることを根気強く伝え、目に見える形で人間の模範として世に来たイエスではなく、神への信仰に立つように、導いておられる。
 この時の弟子たちには、十字架にかかって一度死に渡されることが人知を超えた事柄ゆえに理解できなかったが、目に見えるイエスがいなくなった時、信仰が芽吹き、聖霊の承認を得て、主のみこころ(なすべきこと)をなすよう力強く変えられて行った。主が与えた信仰が実を結び、自分ではなくイエスを証するものと変えられていったのである。
 18章では、見せかけの信仰とは異なる信仰の本質を、不正な裁判官のたとえ(1-8)、パリサイ人と取税人のたとえ(9-14)、幼子たちのように神の国を受け入れる必要(15-17)、金持ちが神の国に入ることの難しさ(18-25)、救いについて(26-30)、十字架とよみがえりについて(31-34)、盲人の信仰によるいやし(35-43)という流れで信仰の本質が語られている。
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フォローアップ礼拝メッセージ 提供:落ち穂の会


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