2018年02月25日

義と認められる祈り「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書18章より〜

『義と認められる祈り−自分を高くする者と低くする者−』ルカの福音書18章1〜14節(新改訳聖書使用)

失望せずに祈ること

 17章では、「信仰を増してください」(17:5)と言う使徒たちに、主イエスが「なすべきことをへりくだってしなさい」と教えられていたが、こつこつと、なすべきことをなそうと心がけつつ、信仰生活を送っていると、うまくいかないことにぶつかり、ふとしたことで、「このままでいいのかなぁ」「祈りが足りなくてこうなっているんだろうか」「私にはもう無理だ、何かどこかで間違ったに違いない」などという思いがやってくることがある。時には人を通じて、やってくるかもしれない。その思いにとらわれていくと、失望→絶望→信仰をやめたくなる の迷路に入り込んでいく。
 そのように状況に左右され、失望しがちな私たちに、「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、」(18:1)主イエスは、たとえで話された。不正な裁判官のたとえである。神はいつまでもすみやかに夜昼神を呼び求めている信者の訴えを放っておかれることをせず、正しいさばきをしてくださるお方だから、あきらめずにひっきりなしに祈れ、とイエスは弟子たちに教えられている。やもめという立場が弱い者がたとえに出されている。やもめは、裁判官に、対人問題(「私の相手をさばいて…」(18:3))に関して訴えていた。

自己顕示欲
 対称的に、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して、次のような祈りについてのたとえが語られている。パリサイ人と取税人の祈りのたとえである。パリサイ人たちは、自分たちはよく祈っている者だと思っていただろう。「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』」(18:11,12)「ほかの人々のように」と他すべてを見下し、自分が選り抜きんでていると思っているのである。これは、御霊の実ではなく、サタン的性質である。パリサイ人については、「見えのために長い祈りをする」(マタイ 23:14)とも言われているが、ここでは、宮での心の中での祈りであり、人に見せるための長い祈りについてではなく、自分を義人だと自任し、他の人々を見下している心が取り上げられている。「私は罪を犯したことがない。長時間祈るし断食もよくする。献金も神の分として律法に規定されている十分の一をしっかり行っている。」「私は祈ってなすべきことをみなしているし、伝道のために迫害や苦しみにあっているが、何があっても信仰によって進み続けている。皆さん、私を見て私のように信仰を働かせて下さい。」一見、強い信仰の持ち主のように思うかもしれない。神の本質を知らず、「なすべきこと」をはき違えると、他人をも見下すようになりかねない。聖書でいうところの「罪」を犯さない人間はいない。信仰者であっても許された罪人である。祈りであっても、断食であっても、献金であっても、行いを誇ること自体が、慢心である。パリサイ人の祈りは、信仰的な自分を神にアピールしている。「神」の語を使っていても、心は自分でいっぱいだ。
 半面、取税人は、罪を犯してしまう自分の弱さを熟知していて、全知全能の神にあわれみを乞うしかなかった。「取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」自分では変われない、むせび泣くように胸をたたいて、言葉があふれたような心からの祈りであった。
 パリサイ人たちだけでなく、人間は誰しも、人に認められたい、特に指導者や神など、上位にある者に承認を得たいという欲求が存在する。貪欲になり度が過ぎていくと人を落としても自分を引き立たせるようになっていく。マズローの5段階欲求説では、下層から「生理的欲求」、「安全への欲求」、「愛・所属への欲求」、「承認への欲求」、「自己実現への欲求」と人間の持つ欲がピラミッド式に上へと描かれている。マズローは、晩年第6欲求として自己超越欲求(自分のためだけでなく、他の人々や他の者を豊かにしたいという欲求)を発表している。神のみこころは、自己欲求が満たされ、かつ、神の似姿の第6欲求にシフトしていくことである。

承認欲
 28節では、弟子たちの「承認欲」からの発言があるが、主イエスは、根気強く愛をもって教えられている。「すると、ペテロが言った。『ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。』」
 パリサイ人と弟子たちの自己承認欲には、違いがある。違いはいろいろ挙げられるが、神の言葉をも自分の考えで曲げ、 神を利用しても、自己一致(自己概念〈そうであるべき自分、自己イメージ〉と自己経験〈あるがままの自分〉が一致している状態で、気持ちに嘘がなく、純粋であること。幼子のように…)がないままに自己を達成しようとする自己顕示欲か、自分に痛い所や弱さと向き合って、自分に必要な欲が満たされていないことを神に持っていき、主と共に歩む自己成長の道を選んでいくかがその違いの一つである。
 この時点(十字架前)での弟子たちには、目の前のイエスに従い、みこころに応えて、イエスに承認されたいという思いがあった。そのような弟子たちに、主イエスは、自分は十字架にかかって世を去ることを根気強く伝え、目に見える形で人間の模範として世に来たイエスではなく、神への信仰に立つように、導いておられる。
 この時の弟子たちには、十字架にかかって一度死に渡されることが人知を超えた事柄ゆえに理解できなかったが、目に見えるイエスがいなくなった時、信仰が芽吹き、聖霊の承認を得て、主のみこころ(なすべきこと)をなすよう力強く変えられて行った。主が与えた信仰が実を結び、自分ではなくイエスを証するものと変えられていったのである。
 18章では、見せかけの信仰とは異なる信仰の本質を、不正な裁判官のたとえ(1-8)、パリサイ人と取税人のたとえ(9-14)、幼子たちのように神の国を受け入れる必要(15-17)、金持ちが神の国に入ることの難しさ(18-25)、救いについて(26-30)、十字架とよみがえりについて(31-34)、盲人の信仰によるいやし(35-43)という流れで信仰の本質が語られている。
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2018年02月18日

兄弟を赦しなさい「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書17章より〜

『兄弟を赦しなさい−あなたのところに来るなら−』ルカの福音書17章1〜10節(新改訳聖書使用)

つまずきを起こさせる者

 16章でイエスは、弟子たちに「不正な管理人のたとえ」を話され、聞いてあざ笑っていた金の好きなパリサイ人たちに「金持ちとラザロのたとえ」を話された。その後、弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。」(17:1)イエスの話を聞いてあざ笑ったパリサイ人たちは、イエスの話につまずいたのだが、別のところでパリサイ人たちは、律法を自分たち流に曲げ、人々に負いきれない荷物を負わせて、弱い者たちをつまずかせていた(11:46)。真理を語ったことにより、聞いた人がつまずくのは、避けられないことであるが(「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」(ガラテヤ 5:17))、罪によって小さい人ひとりにでもつまずかせることは、「そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」(17:2)と語られている。



聖書のいう赦し

 罪が原因でつまずきを起こす者については、「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」というさばきが待ち受けている状態であるゆえ、弟子たちに「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。」(17:3)と教えられるイエス。「戒める」ことが第一に言われている。次いで「そして悔い改めれば、赦しなさい。」(17:3)と赦しについて語れている。順番がある。ここで注目したいのが、「悔い改めれば」という語である。これは、赦しについて述べられた中では、ルカの福音書のみにある語であるが、どうでもよい語ではない。4節では「あなたのところに来るなら」とも言われている。罪を犯して悔い改める気もない者を、神は寛大な心で赦されたかを考えてみればよい。神がなさらないことを、神とともに歩む者がどうしてできようか。悔い改める気もない者を、自分を飾るために赦すなら、罪を犯した者を悔い改めから遠のかせてしまうことにもなるのである。それは神の愛ではない。宗教的な自己満足である。「悔い改めれば、赦しなさい。」とは「悔い改めない者を赦すな」と言っているわけでもない。その人が悔い改めるまで赦しを延期して、被害者はその案件をその人を含めて手放すのである。「彼(罪を犯した兄弟)を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ 18:17)と言われている状態である。ただし、これは主にある兄弟についてである。まだ、神を知らない人たちについては、悔い改め云々より、神の愛を伝えることが先決である。「悔い改めます」と罪を自覚して、悔い改めても、繰り返してしまうような場合は、寛大な心で「赦してやりなさい」(17:4)とも言われている。それも七度(完全数)。主の愛は偏ったことをなさらない。



信仰を増してください

 イエスの教えを聞き、信仰がないとできないと自覚したのか、使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」(17:5)私たちも祈りのなかで、言った覚えがあるのではないだろうか。主は、この願いに答えられている。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」(17:6)そのようにできない使徒たちの信仰のなさを指摘されているのではない。わずかな信仰があれば、できるのだと前置きされたのである。そして、「ところで」(17:7)と耕作か羊飼いをするしもべのたとえを引き合いに、「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」(17:10)と答えられている。主人のためになすべきことをあたりまえのようにしていくというのがイエスの答えである。私たちは、「私たちの信仰を増してください。」と祈れば、すごい体験をして、また自分の修行や訓練を神が認めて信仰を引き上げられることを待ち望むかもしれないが、主の答えは、主人である主を見上げ、しもべのようになすべきことを忠実に黙々と喜んでしていくなら、信仰が増し加えられていく、というものである。

これを拒み、「『(神の国が)そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』」(17:21)という言葉を追いかけていくならば、「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い」(17:33)という事態に陥ることになりかねない。日々、主の教えをかみしめて、忠実に世に光を指し示していこう。
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タグ:赦し
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2018年02月04日

不正の富で友をつくる「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書16章より〜

『不正の富で友をつくる−神と富に仕えることはできない−』ルカの福音書16章1〜18節(新改訳聖書使用)

ルカの福音書

 ルカの福音書には、たとえ話が多く語られている。ルカの福音書は、ギリシヤ人を直接の対象に書かれたとされている(マタイはユダヤ人、マルコはローマ人)。ユダヤ人は、聖書(律法)を中心として生活していたので、マタイの福音書は、聖書を多く引用している。ローマ人は、政治と権力という理念によって栄えてきたので、マルコは超自然的な力を示すイエスの奇跡に注目させた。ギリシヤ人は知恵を追求し(Tコリント 1:22)、教養、哲学、理性、美を意識していたので、その心に訴えるよう描かれている。教養的、哲学的であったギリシヤ人は議論好きで、その様子を、ルカは、使徒の働きの中で、「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(使徒 17:21)と記している。議論好きの彼らは、たとえ話を興味深く聞いたことであろう。

 今日の箇所は、「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」の2つが語られている。どちらもお金にまつわる話である。15章ではやってきた取税人や罪人たちに「放蕩息子のたとえ」が語られているが、「不正な管理人のたとえ」は弟子たちに、「金持ちとラザロのたとえ」は一緒に聞いていた金の好きなパリサイ人たちに向けて語られている。



不正な管理人のたとえ

 「不正な管理人のたとえ」は、ルカによる福音書の中でも一番難しい箇所だと言われている。主人にお金の管理を任されていた管理人が、他の人からの訴えによって、主人のお金を乱費して首になろうとした時に、助けてもらおうと証文に細工をして債務者に恩を売ったところ、その行為を主人がほめたというたとえであるが、普通に考えれば、管理人は主人のお金を使い込み、自己中心的な考えで、証文を偽り、とがめられて当然のような話であるのだが、このたとえでは主人がほめ、主イエスも「不正の富で、自分のために友をつくりなさい。」(ルカ 16:9)と評価しているのである。聞いていた弟子たちは、さぞかし意表を突かれただろう。このたとえでは、訴えた人や管理人、主人の人格の詳細は述べられていない。

 「不正の富」と言われているが、ある牧師は、「富はすべて不正な富である。富というのは、正当な手続きで得た富であっても、どこか不正なものがこびりついているし、そうでなくても富というものはいつでも私たちの心をそこに執着させて、神から引き離そうとする。」と言っている。極端かとも思われるかもしれないが、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ 19:24)と主イエスも言われているように、聖書ではマモン(富)は貪欲に通じる、神に反するものとして描写されている。

 「自分たちの世については、世の子らは光の子ら(弟子たち)よりも抜けめがない」(16:8)のであるから、神の子はまことの富(天の宝)のために、不正の富をも用いて神にあって抜けめなく忠実に仕えよと語っているのである。
 主イエスは、このたとえのしめくくりで、神にも仕え、また富にも仕えるということはできないと話された。神と富は対照的に述べられている。



パリサイ人たちの反応

 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(ルカ 16:14)この教えを傍らで聞き、金を愛し、世俗的な職業家であったパリサイ人たちは、神に仕えるという形をとりながら実のところは「金の好きな」とあるように富の方に思い入れがあった。このイエスの教えが広まったなら自分たちの立場がなくなると思い、その場で、「イエスを罵倒し〈嘲笑し〈あざけり〉はじめた」(詳訳)のである。「なんというひどい教えか!」「無知もはなはだしい。」こういう感じだろうか。生きるためには、お金は必要であり、全く持たないわけにはいかない。主イエスが言われたのは、「弟子たちは、神に仕えるのだから富を排除し貧乏でありなさい。」と言われたわけではもちろんない。この世の富を用いて神の国を建て上げよ、ということである。これは、もちろん、カルト化教会のように、お金を信者からむしり取って教会や牧師の誉れのために使ってよいということではない。「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言われたように、友=困っている人が感謝できるような行為のために用いる、証文を書き換える=(借金を)赦し解放する、但し主人が困ることがない範囲で(これは、主人もあきれてほめていることからわかる)

 ユダヤ人には、富と善を結びつけて考える習慣があったという。富はよい人間のしるしであった。パリサイ人は善行を見せびらかし、物質的繁栄をその善行の報いと考えていた。彼らは、律法を自分たちに都合よく教え、離婚も公然と行っていた。分別があるようにふるまい、もっともらしく聖書を教えているパリサイ人たちは、律法を自分流に曲げてまでも律法にそった生活をしているように見せかけ、「ラビ(先生)」として人々から尊敬を受けていた。

 そのようなパリサイ人たちに向けて、「律法の一画が落ちるよりも天地の滅びるほうがやさしい」(16:17)と、律法が欠け落ちることはないことが強調された後、「金持ちとラザロのたとえ」で「モーセと預言者との教え(律法)に耳を傾ける」(16:31)重要性を告げられているのは、パリサイ人たちへの主の愛なのである。
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