2015年03月09日

『キリストの花嫁 2』雅歌 1:12-2:7

 前記事では、雅歌1章11節までより、王なる花婿イエスさまの大きな愛とキリストの花嫁となる女性の初々しい愛を見てきた。王に、引き寄せられ、その深い愛を知り、奥の間から出てきた花嫁。孤独を訴える花嫁に、花婿は、銀をちりばめた金の特性の飾り輪を作ること、つまり、購いと神性、イエスの似姿で花嫁を飾ってくださることを約束した。
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『かもしかや野の雌鹿をさして−干渉の禁止―』雅歌 1:12-2:7(新改訳聖書使用)

羊飼いの愛
 王なる花婿に励ましの言葉を受けて、花嫁は言う。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」(雅歌 1:12)と。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)と言われる王が、私たちとともに、うたげの座、つまり食事の席についてくださっている間は、花嫁は、平安に満たされて、その平安、平和のかおりが周囲にも満ち溢れるのである。ナルドは、おみなえし科の宿根草で、平安の象徴である。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、・・・」(雅歌 4:13,14)と花嫁から産み出されるかおりのある実について書かれている箇所がある。この後は、「香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:14,15)と続いているのだが、かおりのある実は、ちょうど9つ(ざくろからアロエまで)である。私たちから産み出されるかおりのある実とは、何であろうか?  「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)(雅歌 4:14,15)ちょうど9つある。対比してみると、ナルドは、平安となる。ベタニヤのマリヤは、十字架を目前にした主イエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油をぬった。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになった、とある (ヨハネ 12:3)。強い香りゆえに、ピラトの法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで、香り続けたことだろう。平安、平和をもたらした主の十字架の香りである。

 次に、花嫁は、花婿を、2つのものに例える。「乳房の間に宿る没薬の袋」と「エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさ」である。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」(雅歌 1:13,14)没薬とは、ミルラという植物の樹脂であり、古くから、通経薬(月経を通じさせる薬)、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。没薬は、柔和、へりくだりを象徴する。当時の女性は、自分の体によい香りを漂わせる香水の代わりとして、におい袋を胸元につけた。花嫁にとって、よい香りを放つ柔和、へりくだりのかおりの源は、愛する花婿である。乳房の間=心の中心に宿るへりくだりは、イエスさまによる。また、エン・ゲディとは、「子やぎの泉」という意味である。そこは、死海の西岸中心にあるオアシスの地で、石灰岩の裂け目から泉が湧き出るとともに、死海水面200メートルの高さからも滝が落ちて、美しく深い泉をつくっているそうである。ヘンナ樹は、高さ2〜5メートルの潅木で、多数の花をつけ、香りも高い。化粧やしみを隠すためや香水などにも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。美しいきれいな泉のそばの多くのおいしそうな実をつけているぶどう畑、その中にあるよい香りを放ち、喜びの種を多くならせるヘンナ樹の花房に、花婿を例えているのである。まことに、主イエスは、へりくだりのかおりの源であり、おいしい実とともに、よい香りと多くの喜びを与えてくださるお方である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。段落が変わる。

 花婿は告げる。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」(雅歌 1:15)2度繰り返されている「なんと美しいことよ。」ということばから、花嫁としての孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁への思い、感嘆ぶりが伝わってくるようだ。鳩の目は、素直で優しい。その目を花嫁に当てはめている花婿。この柔軟に主の思いを受け取る花嫁を花婿は、このように、感嘆して喜んでくださるのである。

 花嫁は返す。「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)まことに、雅歌は、比喩が多く、主を知ることなしには、理解できない、奥深く主の愛情にあふれた書簡であるとつくづく思う。「私を美しいなどとおっしゃいましたけど、美しく慕わしいのはあなたです。」と花嫁は言っているのである。「長いいす」は、休息の場を表わす。「青々としています。」は、ヘブル原語の「ra`anan(新鮮な)」である。想像していた特上のゴージャスな牧場ではないけれど、花嫁の霊の目は開かれた。こここそが、最上の求めていた安息の牧場であったと。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇 23:1,2)乏しいことがなく、安息の新鮮な牧場にいたことに、花嫁は気づいたのであった。こうして見ていくと、私たちは、王であり、羊飼いである花婿が、雅歌1章に表わされていることを知ることができる。

 「私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」(雅歌 1:17)花嫁は、ここで、花婿と花嫁の家についてふれている。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Tコリント 3:16)とパウロは言っていることをふまえ、この霊的な家について見ていく。花嫁の内には、内なる家、霊的な家が成長してきたのである。家の梁、梁は建物の内部に見られるように、内部の構造であり、壁の中や天井で支えとして使われるものである。この支えは、杉の木(レバノン杉)でできていた。杉の木とは何を意味しているのか? 民数記19章にその答えを見出せる。罪のためのきよめについての神の定めが書かれているが、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや緋色の糸とともに使われるのが、杉の木であった。霊の家は、きよめという支え、基礎の上に成り立つものであることを忘れてはならない。次に、たるきであるが、たるきは屋根を形づくるものである。糸杉は、果樹園の防風樹の生垣に用いられている木である。樹脂を含むこの木は、腐敗しにくい。聖ピエトロ大聖堂の扉は、この糸杉で作られているそうである。このような腐敗しにくく風よけに適している木で守られた家は、さぞかし安全で強いことだろう。

 比喩ばかりで、ため息が出てきそうだが、なぜ、このように、困難なたとえで、雅歌はつづられているのか。主の愛の宝庫である雅歌、イエスさま自身のことばで言うなら、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ 13:13)である。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ 13:10-15)イエスさまの愛に自らの欲で近づかないためにである。

愛のことばの交し合い
 花嫁は続ける。「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。」(雅歌 2:1)シャロンは、地中海沿岸のヨッパの町から北にカルメル山まで続いている平原のことである。エルサレムからは遠く離れている。「サフラン」は口語訳や新共同訳、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、「ばら」と訳され、文語訳は、「野花」と訳されている。赤い小さな花で、シャロン平原ならどこにでも見られるようなありふれた花である。「谷のゆりの花」も日本人は、大きなやまゆりやおにゆりを想像しやすいが、イスラエルの野にあるアネモネのような可憐な花であると思われる。ここで、花嫁は、花婿に美しいと言われても、エルサレムの洗練された娘たちに比べると、自分は、洗練されていない一輪の野花であり、谷の中にうもれるようにひっそりと咲く野花であると、けんそんに言っているのである。

 このような花嫁のことばを受けて、花婿は言う。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(雅歌 2:2)私の愛する花嫁が、エルサレムの他の娘たちの間にいることは、とげだらけのいばらの中のゆりの花のように、美しいと告げる。ゆりは、いばらのとげが当たって痛いかもしれないが、いばらの中にあって、ゆりの美しさは、花婿の目には、いっそうきわだっているのである。

 今度は、花嫁が返す。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌 2:3)聖書には、しばしば、人を木に例えて描いている。イエスさまがおいやしになった盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」(マルコ 8:24)と言った。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5)イエスさまはご自身をぶどうの木に例えた。同じ実のなる木でも花嫁は、「林の木の中のりんごの木」と言っている。他の若者たちと比較すると、実のならない他の木の中で、花婿は一際目立ち、赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木のようだと言っているのである。ぶどうは多くの木の中にあると、目立たない色の果実であるから、ここではりんごの木となっているのではないかと思う。花嫁は、そのりんごの木陰で、つまり覆われ、守られて、休むことを切に望んだ。実のないスカの木の木陰で休んだとしたら、お腹がすいても満たしてもくれず、のどが渇いても潤してももらえず、見栄えばかり立派で、飢え乾いてしまうが、多くの実をつけたりんごの木陰は、その実がのどもお腹も満たしてくれることだろう。実がなく、葉っぱばかりをつけていたいちじくの木をイエスさまがのろわれたことを思い出す。主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇 19:7-10)とあるが、主が、私たちに与えてくださる食物は、蜜よりも、蜂蜜の巣のしたたりよりも甘いのである。

 「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4)直訳すると「ぶどう酒(宴)の家に連れて行った。」である。そうして、花嫁は、喜びの宴の席に伴われて行ったのである。主がくださった食物は、私たちをどんな境遇にあっても喜びで満たしてくださるのである。「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(Uコリント 7:4)とパウロが言えたのは、主によって酒宴の席に伴われたからであった。旗は、勝利を意味する。花嫁の頭上にはためいている主の勝利のしるしは、愛であった。愛が、勝利の要なのである。主の愛にとどまり続け、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主を愛すること、相互の愛である。

 愛が要であることは、花嫁も知っているのだが、先週見てきたように、兄弟たちのしいたげによって、無気力になっている花嫁は、愛する力も出てこない。そこで、花嫁は言う。ここまでの花婿の語りかけで、花嫁は、次のように言う力を得たのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)こんなに愛のことばをもらって、やっと、花嫁は、「力を得たい、元気づきたい、私は愛に病んでいる。」と言えたのであった。「干しぶどうの菓子」は、「干しぶどう」とは異なる、ケーキ状に圧縮したぶどう菓子のことである。ぶどうの実そのままよりも、圧縮しているので、多くの実を口にすることができる。シナイ修道院では、今日でも旅人を元気づけるために、この種のケーキを出しているそうだ。そのぶどうの実の食物、ぶどうの木からとれる食物、主イエスから直接いただく食物は、私たちを最も力づける食物である。「りんご」も先ほど見たように、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物である。花嫁は、無気力で、愛する力が出てこないことを「私は愛に病んでいるのです。」と表現している。「病む」は、ヘブル原語では「病気になる、病気である、悲しい、弱くなる、懇願する、自分で病気にかかる、病気にされた、疲れた、弱くされた、傷つけられる」などの意味である。

 より強い愛を求め、愛に病む花嫁は懇願する。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)同じことばが、8章3節でも言われている。左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)「あなたの右の手は義に満ちています。」(詩篇 48:10)「私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」(詩篇 138:7)他にも多くあるが、右の手は、力、救いとして表わされている。主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られることは、なんと心地よいことか。

 「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7)雅歌に3回繰り返され、念をおされていることばである。花嫁は、今度は、エルサレムの娘たちに、お願いする。「かもしかや野の雌鹿をさして、誓いを立てることを。」かもしかや野の雌鹿は、「純粋さ」を表わし、誓いの純粋さの意味であろうとある註解書には書かれている。私は、後の9節で花婿のことをかもしかや若い鹿に例えていることから、ここは、主なる花婿の象徴であると思える。誓いのゆるぎなさを表わしている。「山々をとび越え、丘々の上をはねて」(雅歌 2:8)花嫁のもとに馳せてくる花婿の性質。かもしかが駆けてくるさまは、軽やかにすばやい。主イエスの再臨をも思わせる描写、かもしかは、主イエスの象徴である。野の雌鹿は、鋭い認識力を備えている。雌なので、母として例えられるご聖霊の性質のようである。ご聖霊は、私たちの心の畑の見張りをもしてくださる敏感なお方である。花嫁は、ここで、主イエスと、エルサレムの娘たちの内にも住まわれているご聖霊にかけて誓わせているのである。誓いとは、神聖なもの、何にでも誓えばよいというものではない。「軽々しく誓ってはならない。」とあるように(マタイ 5:34-36)。しょうもないものに誓っても、仕方がない。誓いにならない。完全である神にではないと、その誓いはあてにならないものになる。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。花嫁は、花婿とのさらなる愛の関係を望んではいるのだが、それは、娘たちに揺すられたり、かき立てられたりして、無理やりに目覚めたいと思ってはいない。花婿との愛の関係は、花婿自身によって、なされるべきだからである。他人が干渉することではない。他人ができることは、見守り、応援することだけである。花婿だけが、花嫁の愛を目覚めさせることができるのである。

 主イエスの愛がわからなくなるほど、無気力になったときは、花嫁がしているように、懇願すればよいのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)と。そして、主の左の腕に枕し、右の腕でしっかりと抱いてもらうのである。ただし、その間、決して、エルサレムの娘たちによる干渉を受けないように・・・、と聖書は言う。

落ち穂の会提供

posted by CVSA事務局 at 20:36| Comment(0) | 雅歌

2015年03月01日

『キリストの花嫁 1』雅歌 1:1-11

 最近、特に「キリストの花嫁」という言葉が盛んに使われているようだ。
が、キリストの花嫁というのは、なりたいと努力してなるものではない。
雅歌には、そのことがよく表されている。
雅歌を読み解くと、壮大な大河ロマンを見るような感動が湧き上る。
この雅歌を11回に分けて見ていく。
聖書は、多くの宝が埋まった不思議な書物である。
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『羊の群れの足跡−キリストの花嫁−』雅歌 1:1-11(新改訳聖書使用)

信じる愛
 「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7, 3:5, 8:4)雅歌に三度も繰り返されていることばである。イエスさまは、急がずあわてず、信仰が成熟し愛が育つまで、私たちを信じて待っていてくださるお方である。
 私たちは、「私はイエスさまを信じます。」と自分でイエスさまを信じたように信仰を表明するが、実は、イエスさまのほうが私たちを信じてくださっているのである。先にイエスさまのほうが、私たちを信じてくださっているから、救いを得たと言える。「イエスさまを信じます。」と言った後も、私たちはとかく、疑いや甘えなどから従わなかったりしてしまうような者である。しかし、そのようなときにもイエスさまは、私たちを信じて、とりなしをしてくださっているのである。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル 7:25)

 「イエスさまが私たちを信じる? 逆ではないのか?」と奇妙に聞こえるかもしれないが、イエスさまは、罪人の私たちを信じてくださっているのである。信じていなければ、聖霊を託したとはいえ、この世の救いを当時の信者たちにゆだね、「地の果てまで宣べ伝えよ。」と告げて、天に行かれることはできない。
 このような話を聞いたことがある。復活後、昇天されたイエスさまに、ある天使が聞いた。「イエスさま、あのような頼りにならない(眠りこけ、主を否み、逃げ去った)弟子たちに、後を任せて来られて、大丈夫ですか? 信者がだれもいなくなったら、この世はどうなるのでしょう? イエスさまがかかられた十字架も無意味になってしまうじゃないですか? 心配じゃないですか?」と。動じずに主は答えられた。「わたしは、わたしの友を信じている。私が選び、愛した者たちだから。」「愛は・・・すべてを信じ」(Tコリント 13:7)とあるが、主は、ご自身のゆるがない愛ゆえに、私たちを信じておられるのである。

 ある人が、試練の中、愛も冷え、祈れなくなっている状態でいるときに、あることばが心に響いた。それまでは、祈れなくなっていることを責められているような罪責感が心のどこかにあった。「・・・今は祈れないほど心弱っているが、彼女は、必ず、再び祈る者となる人です。」「わたしはあなたが立ち直るまで、待っているよ。」心に直接語られたことは、ことばに置き換えたら陳腐になってしまうが、主はご自身のその愛とともに、語ってくださるお方である。私たちが、立ち上がる力をいただくのは、主の愛によってである。主の期待、愛に答えたいと思うからである。このようなどうしようもない者をも、祈ることを期待して待ってくださることを思うなら、その期待を裏切ることなどできるだろうか。ここで言っている期待は、愛の期待である。エゴの期待はまた別である。
 「愛は・・・すべてを期待し」(Tコリント 13:7)ともあるが、期待とは、時期を待つと書くが、信じて待っていてくれると思うから、つまずいても、がんばって立ち直れるのである。「あいつは、だめだと思うよ。」という心と、「あの人は、いつか必ずできる人だと私は信じるよ。」という心のどちらに愛があるかは、聖書を知らなくてもすぐわかる。人は愛に敏感である。むしろ、宗教的になっていくほどに、愛については、鈍くなるようだ。

花嫁の王なる花婿への求め
 「ソロモンの雅歌」(雅歌 1:1)雅歌は、ソロモンが、愛する妻に、結婚を祝して書いたものと考えられている。花婿と花嫁のやりとりの形で婚約期間、結婚、夫婦となってと順に構成されている。ソロモンの花嫁といえば、異教徒である。そのソロモンのラブレターが、なぜ聖書に収められているのか? ある著名なクリスチャンの方が、信仰の初め頃は、この雅歌はエロティックで敬遠していたが、信仰が増すにつれて、意味深い宝が隠されていることがわかってきた、と言っておられた。「右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で・・・」(雅歌 4:5)というような描写があるために敬遠しがちだったという。出だしからして、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)とおよそ聖なる書物とも思えぬことばが書かれている。単なる人間の書いたラブレターとして読むなら、他人のラブレターなのだから、こんなにつまらないものはない。しかし、これは、霊感され書かれた書物である。イエスさまの愛に飢え渇いて無垢な心で読むと、主が、ご自身の花嫁をどのように愛されているかが見えてくるのである。雅歌は、ご自分の花嫁として召された信者をどのように愛しておられるかを綴った主からのラブレターなのである。

 「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」(雅歌 1:2)花嫁となる女性は、花婿の愛を大胆に求めている。「あの方」とはもちろんキリスト、これを言っている花嫁となる女性は、キリストの花嫁なる教会、つまり信者である。「口づけ」 相互の楽しみ、お互いの喜び、対等な愛の交換を表わすこの語、原語は複数形である。東方のある国では、ある人が赦しを求めているときの口づけは、悔い改めを意味するそうである。私たちは、まず、キリストに罪の赦しをいただかなければ、よい関係は結べない。へりくだって、赦しの口づけをたくさんいただくことが、第一に必要なことである。これは、飢え乾き、つまりキリストへの愛への求めから始まるのである。

 「あなたの愛はぶどう酒よりも快く、」(雅歌 1:2)キリストの愛は、ぶどう酒、つまりキリストの血潮、つまり十字架の贖いよりも快いということである。といっても十字架の贖いを軽んじているわけではない。贖いがあってこその愛である。ぶどう酒はすでに経験済みであることを前提にしている。花嫁は、ぶどう酒に甘んじてなどいない。十字架の贖いの愛を通り、さらに深い愛の関係に進むのである。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」(へブル 6:1,2)

 「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。」(雅歌 1:3)キリストのかおりは、最もかぐわしく、魅力的であり、楽しい愛にあふれたものである。香油にたとえられているように、辺り一面に立ち込めるほど影響力のあるかおりである。主の祭壇、香壇にささげられた香油は、詳しくは主題からの学び「幕屋(香壇と香)」にまとめてあるが、次の五つの原料からなっていた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。これをもって香を、調合法にしたがって(塩でこすること)、香ばしい聖なる純粋な香油を作る。」(出エジプト 30:34,35)ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、純粋な乳香、塩である。ここで、花嫁は、主の名をこの香油に例えている。ナタフ香は、没薬の木に深い傷をつけることによって抽出する没薬の樹液の一種であるが、神であられるのに、罪となられ、十字架の死にまで従われた主イエスの柔和、へりくだりを象徴していた。シェヘレテ香は、ソデガイという貝殻の薄蓋から採集され、燃えると油を出して、芳香を放つ香であり、平和、平安の象徴であった。ヘルベナ香は、せり科の木の根の方の割に太い部分に傷をつけて浸出する乳状の液を集めたものであり、支え、土台としてのイエスの象徴であった。純粋な乳香は、乳香樹の幹を傷つけて取る乳白色の樹脂であり、純粋な信仰の象徴であった。塩は、腐敗を防止するための、純化し、保存し、きよめ、味をつけるという象徴であった。これらのかおりに惹かれて、おとめらは、イエスを愛するのである。それらのかおりに惹きつけられて、おとめらが集まってくるのである。

 「私を引き寄せてください。」(雅歌 1:4)たくさんのおとめらが、愛を携えてくる中で、花婿に引き寄せてもらわなければ、とても彼について走ることができないことに、気がつく花嫁。謙遜さゆえに、どの娘たちよりも愛され、大勢のおとめたちの中から王に選ばれたエステルのように、(「そこの女は、王の気に入り、指名されるのでなければ、二度と王のところには行けなかった。」(エステル 2:14))私たちも、引き寄せてもらわなければ、花婿なるイエスのもとには行けないのである。「私たちはあなたのあとから急いでまいります。」(雅歌 1:4)そこに行くのは、へりくだりに尽きる。引き寄せられたからといって、待ってましたとばかりに、花婿の前を進むのではなく、花婿の後から、のんびりとではなく、急いでついていくのである。

 「王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」(雅歌 1:4)ここで、花婿は、王と呼ばれている。この奥の間は、主と二人きりになるための祈りの部屋であるかもしれないし、ひょっとして孤独の試練の部屋であるかもしれない。いずれにしても、深い祈りへと導かれていく。そうして、花嫁は、その奥の間で、花婿による楽しみと喜びを知るのである。十字架の購いを入口とし、試練を通って、花嫁は花婿のはかりしれない愛を知るのである。今、花嫁は、愛をぶどう酒にまさってほめたたえるように成長し、真心をこめて、花婿を愛しているのである。この後、ヘブル原語では「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿なる王と奥の間で過ごし、時が経ったということだろうか。
 「エルサレムの娘たち。私はケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、黒いけれども美しい。」(雅歌 1:5)他のエルサレムに住む娘たち(まだ花婿をよく知らない幼く若い者たち)に、花嫁は言う。「ケダルの天幕のように」ケダルはイシュマエルの次男である。ケダルはイシュマエルの子孫を指し、荒野に住み、その天幕は黒っぽい山羊の皮でできていた。焼けつく試練の荒野を通り、たくましくなり、日にも焼け、黒くなってしまった花嫁は、エルサレムの都会で上品に暮らしていた娘たちよりも黒くなってしまったことであるが、きらびやかなソロモンの幕のように、栄光の美しさを放っているのである。

 花嫁は花婿に、荒野で黒くなってしまったことを恥じらい、懇願する。「私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。私の母の子らが私に向かっていきりたち、私をぶどう畑の見張りに立てたのです。しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。」(雅歌 1:6)「母」とは出発点、分岐点の意味もあり、聖霊のことであり、子らというのは聖霊によって生まれ、いのちを与えられた教会の信者たちを表わしている。「いきりたち」とは、「怒りに燃える、憤る、熱くなる、嫉妬する、激怒する、かっとなる、燃える、いらだつ・・・」の意味である。王から花嫁として選ばれ、奥の間から出てきた花嫁を待っていたのは、兄弟姉妹たちからの敵意であった。兄弟姉妹たちは、見せかけではない花嫁の美しさを見ていきりたち、ぶどう畑の見張りに立てた。兄弟たちはぶどう畑の中、見張りは外、その収穫のための労働、収穫の恵みにもあずかれずに、「おまえはそこで見張っておれ。」といったような状態である。そこに境界線を引いたのである。遠く追放なら、おいしそうなぶどうも楽しそうに過ごす兄弟姉妹たちも見えないが、ぶどう畑から離れてもらっても困るのである。「あなたの姉妹はどこにいったのか?」と父や母に聞かれかねないからである。ひとり多くのぶどう畑(原語は複数形)の見張りに立てられた花嫁、心痛からか、自分のぶどう畑(原語は単数形)を見張ることができなくなっていった。

花嫁の羊飼いなる花婿への求めと応答
 心痛で力尽きた花嫁は、花婿に懇願する。「私の愛している人。どうか教えてください。どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」(雅歌 1:7)もはや花嫁は、花婿に向かって、大胆に「私の愛している人」と呼べるほどに親しくなっている。にもかかわらず、兄弟姉妹たちに境界線を設けられ、区別された花嫁は、どこで羊を養えばいいのか困惑している。多くの花婿の仲間の群れがあるにもかかわらず、なぜ、自分はその群れのところに加われないのか、そこに安息があったのに、なぜ、自分は締め出され、食事の牧草地(群れのかたわら)に行くためには、ひっそりと顔おおいをつけた女のように忍びで行かなくてはならないのだろうか?

 それに対する花婿の答えは、こうであった。「女のなかで最も美しい人よ。」(雅歌 1:8)と敬意を払って、花婿は答える。「あなたがこれを知らないのなら、羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」(雅歌 1:8)「あなたがこれを知らないのなら、」愚かな女たちがいうようなことをいうのだね。あなたは、どこで羊を飼えばよいかを知っていると思ったのだが、知らないのであったら、こうこうこうしなさい、とでも言うように、主(花婿)は答えられた。どうしなさいとおっしゃったかというと、この牧場で飼いなさいと、王の花嫁にふさわしい兄弟たちもうらやむような特上のゴージャスな牧場を与えられたわけではなく、「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」とおっしゃられたのである。

 エリシャに、「ヨルダン川に行って七たびあなたの身を洗いなさい。」と言われたナアマン将軍のようである。特上の専用の牧場を与えてくださってもよいのに、群れの後ろどころか、孤独にも群れがいなくなった後に残された足跡をついて行きなさいと言われたのである。足跡もなかったなら、途方にくれ、行く方向もわからなくなり、困るのだが、幸い、足跡が残されていて、その足跡をついていきなさいと言われている。花嫁は不満だったが、これが最も祝福される道であり、他より寵愛されている花嫁の安息の場であり、花婿にふさわしい花嫁となるための道であったのである。群れに未練があり、忍びででも群れのかたわらに、無理やりにでも引っ付いている限り、花嫁はみじめであった。足跡からはずれないように、群れのかたわらではなく、羊飼いのかたわらで、子羊ではなく、子やぎを飼うのが、花婿(主)の現在の花嫁に対するみこころであった。子羊は、群れが面倒を見ているのである。羊飼いが、さらにまさる安息の牧場を用意してくださるまで、花嫁は、羊飼いのかたわらで、子やぎに対する働き、つまり、群れにいる羊ではない、それ以外の幼い人々に対する働きを続けなければならないのである。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花嫁が、みこころを知り、羊飼いのかたわらで、子やぎを飼って、時が経ったのだろう。
 愛のことばをもって、花婿は語る。「わが愛する者よ。私はあなたをパロの戦車の雌馬になぞらえよう。」(雅歌 1:9)いくらパロの戦車のという修飾語がついていようと、花婿から「あなたは雌馬のようだ」と言われて、うれしいと思う花嫁がいるだろうか。しかも「あなたの頬には飾り輪がつき、首には・・・」(雅歌 1:10)と続くのである。トレンディドラマの中なら、平手打ちがとびそうである。ここで、パロの戦車の雌馬になぞらえているのはどういった意味があるかを見ていく。パロの戦車の雌馬は、戦い、つまり信仰の戦い、それももっとも戦いにたけた強い信仰の馬のことである。

 ヨハネの黙示録には、幾種類かの馬が出てくる。勝利の白い馬(黙示録 6:2)、さばきの流血の赤い馬(黙示録 6:4)、さばきのききんの黒い馬(黙示録 6:5)、さばきの死の青ざめた馬(黙示録 6:8)、そして、黙示録 19章でキリストが乗ってこられるのは勝利の白い馬であり、キリストに従ってくる御使いたちも白い馬に乗ってくることが描かれている。いさましい信仰の馬である。花嫁であるから雌である。聖書には、馬の特性が描写されている箇所がある。「あなたが馬にを与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。あなたは、これをいなごのように、とびはねさせることができるかそのいかめしいいななきは恐ろしい。馬は谷で前掻きをし力を喜び武器に立ち向かって出て行く。それは恐れをあざ笑ってひるまず剣の前から退かない矢筒はその上でうなり槍と投げ槍はきらめくそれはいきりたって、地を駆け回り角笛の音を聞いても信じない角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき遠くから戦いをかぎつけ隊長の怒号と、ときの声を聞きつける。」(ヨブ 39:19-25)ここに16の馬の特性が描かれている。

 @ 「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)主が与えてくださった、主を喜び、そこから得る力である。
 A 首につけられたたてがみ 「たてがみ」の原語の訳はいろいろあるが、ここでは、英欽定訳を見る。たてがみ(ヘブル原語の「ラマー」)が派生した原語「ラアム」は「雷」である。「その首にたてがみをつけるのか。」New King James Version Bible(英国欽定訳)では、“Have you clothed his neck with thunder?”「あなたが、その首にいかづちをつけたのか。」である。いいかえれば、特性Aは、その首にいかづちをつけ、である。ある人は、自然界において、雷は一致のデモンストレーションであると言っていた。なぜなら、稲妻が空を引き裂いた後、雲が再び一つになるときに、雷が鳴るからだという。よって、雷は、力の象徴であるが、一致の象徴ともいえる。
 B いなごのように、とびはねさせることができない 信仰の馬は、悪魔のおどしにも、とびあがるようなことはなく、簡単に怖がらない。
 C そのいかめしい(威厳のある)いななきは恐ろしい 馬の鼻から出る「ぶるぶるぶる」といういななきは、威厳を放ち、恐れをいだかせる。
 D 谷で前掻きし 前掻きするは、「掘る、掘り出す、探り出す、探求する」の意味である。信仰の馬は、暗い谷底にいるときでも、神が埋めた宝を探求し、掘り出す。
 E 力を喜び 信仰の馬は、力の源である主を喜ぶ。
 F 武器に立ち向かって出て行く 信仰の馬は、向かって来た敵と戦うだけでなく、自分から、敵に立ち向かえる信仰がある。
 G 恐れをあざ笑って 「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Tヨハネ 4:18)信仰の馬には恐れがない。
 H ひるまず
 I 剣の前から退かない 剣であるみことばの前にも、自我を明け渡し、逃げ出さない。
 J 矢筒はその上でうなり 矢筒がうなるというのは、矢筒の中で、矢がぶつかりあって、がらがらなるということである。迅速で強くいさましい様子。
 K 槍と投げ槍はきらめく 信仰の馬が放つ槍と投げ槍は、きらめきながら、敵に向かっていく。
 L それはいきりたって、地を駆け回り いさましく、主のために、福音をたずさえ、地を駆け回る信仰の馬。
 M 角笛の音を聞いても信じない 例えば、危ないから、地を駆け回るのをやめなよ、というような不信仰の角笛の音(警告)を聞いても、主ご自身が止められない限り、信じず、主の戦いをやめたりしない。
 N 角笛が鳴るごとに、ヒヒーンといななき 角笛が鳴るごとに、信仰のおたけびをあげる信仰の馬。
 O 遠くから戦いをかぎつけ、隊長の怒号と、ときの声を聞きつける 遠くからでも、戦いを認識し、隊長である主の号令と、その時を見極める感覚を備え、洞察力にすぐれている。

 花婿は、このような特性を備えている馬になぞらえて、自分のぶどう畑の世話もできないほどに、無気力になっている花嫁を励ましているのである。

 「あなたの頬には飾り輪がつき、首には宝石をちりばめた首飾りがつけてあって、美しい。」(雅歌 1:10)「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は、自分の意志の明け渡しに関係する。飾り輪で飾られた頬、自分の意志のままではなく、尊い主の意志で飾られた頬は、実に美しいであろう。また、反抗的で、堅く自分の意志を変えない者を聖書は、「うなじのこわい者」(箴言 29:1)と言っている。首も意志を表わしている。宝石の飾り、New King James Bible(英欽定訳)では、“chains of gold”「金の鎖」となっている。金は神性を表わす色。主につなげられている鎖である。主に明け渡された意志は、とても美しい。

 「私たちは銀をちりばめた金の飾り輪をあなたのために作ろう。」(雅歌 1:11)ここで、花婿が複数形になっていることに、注目したい。人間の花婿は複数ではないが(花嫁は複数のこともありえようが、花婿が複数のことは、まずない)、三位一体の神は複数形である。銀は、購いを象徴、金は神の神性を象徴する。飾り輪には、耳輪、鼻輪、腕輪、指輪、首飾り、腕飾り、足飾り等が聖書に出てくる。そのどこの飾りにしろ、神は、私たちを銀をちりばめた金の飾り輪で飾ってくださる。それも既製品ではなく、「あなたのために」と言われているように、花嫁個人のために、作ってくださるのである。

 結婚に向けての整えの婚約期間の愛の歌を見てきた。花嫁となるべく、整えの真っ只中にいる者のなすべきことが、8節で語られていた。「羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。」
自らの力で、他を蹴落とすのではない。ひっそりと、主御自身の整えの中で、花嫁は整えられていく…。

落ち穂の会提供
posted by CVSA事務局 at 22:56| Comment(0) | 雅歌