2015年07月22日

『キリストの花嫁 11』雅歌 8:5-14

 10回にわたって講解してきた雅歌であるが、とうとうというか、やっとというか、今回が、最後の項目となる。花嫁は、どうなるのか。壮大な小説を見ているようである。花嫁は、試練の苦しみを抜け、動かぬ平安をいただき、後に続いてくる者たちのために、「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)と言っていた。この4節の終わりには、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花婿と花嫁は、祈りの部屋へ行き、親密な交わりを持ち、時が経っていった。
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『愛する者に寄りかかって−すべてに高く−』雅歌 8:5-14(新改訳聖書使用)

花婿の権威を帯びた花嫁
 「自分の愛する者に寄りかかって、荒野から上って来るひとはだれでしょう。」(雅歌 8:5)これを花婿のことばとする人もいるが、訳によっては、男性が女性に語りかけているように訳されていたり(シリヤ語訳)、女性の語りかけのように訳されていたり(マソラ本文〔6世紀から10世紀に、伝統的な聖書本文を正確に残そうとマソラ学者によって印などをつけてまとめられた聖書〕)するようだ。雅歌は、誰が誰に言ったことばといった説明書きがあるわけではないので、誰が誰に言ったのかは、注意深く内容を照らしていかないと、わからなくなり、そのため、いろいろな見解が出てくる。3章6節では、婚礼の行列を見て、「荒野から上って来るあの美しい人はだれ。」と人々が賛嘆の声を上げているのを見てきた。ことばの意味を考えても、それと同じような周囲のことばである。ところで、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6,8:3)と花嫁は、二度、雅歌の中で言っていた。初めからずっと、変わっていない花嫁の花婿への願いであった。花嫁は、花婿の平安、安息の左の腕を枕にし、力強い右の手で抱かれ、守られることをずっと願っていた。今、花嫁は、ずっと願っていたように、寄りかかりながら、荒野から現われた(上ってきた)のである。寄りかかりながら、と言ったが、その寄りかかりは、「私は何もできないから、守ってね。」と相手に責任を置くような甘えからの依存ではなく、花婿の愛という支配の中、花婿と歩調を合わせながら、ともに同労者として歩んでいくというような、寄りかかりである。それでは、助け合いではないかとなるのだが、「助け合い」とならないで、「寄りかかり」となるのは、相手が完全である花婿だからである。花婿である主イエスは、完全なるお方である。人間は、一人一人、不完全であり、個人でする働きには、限界がある。その人の性質、特質、特長によってなすべき働きは、それぞれ異なる。異なるからこそ、同じ志を持つ者が、多く集まれば集まるほどに(一致が欠かせないが)、完全ではない相手の弱さをカバーし合え、完全な働きとなっていくのである。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ 12:4,5)ここで、花嫁は、完全である花婿に、寄りかかりながら、花嫁として、地上で自分のなすべき働きをしていくのである。厳しい試練の荒野から、花婿に寄りかかって、出てきた花嫁は、キリスト者として、みごとな成長を遂げていた。

花嫁の成長
 「私はりんごの木の下であなたの目をさまさせた。そこはあなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」(雅歌 8:5)2章で、花嫁は、花婿を「林の木の中のりんごの木」(雅歌 2:3)にたとえた。赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木は、花婿の象徴であり、りんごの実(雅歌 2:3,5, 7:8)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような、主がそのご性質から私たちに与えてくださるものであった。2章3節で、「私はその(りんごの木)陰にすわりたいと切に望」んだ花嫁の願いが、いつの間にか、ここにきて、かなっている。というか、すわるどころか、すっかりくつろいで(安息して)、花婿が目をさまさせるまで、ぐっすり寝ていたわけである。りんごの木の下は、「あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこはあなたを産んだ者が産みの苦しみをした所。」と、花婿は言っている。「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ 8:26)産みの苦しみというべきとりなしをもって、絶えず働いておられる聖霊さまは、罪の世を歩んでいる私たちを救うために、また、救われた後も、主にふさわしいものとなるために、私たちに「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」といったりんごの実を与えてくださる母である。花嫁は、孤独だと思っていたわけだが、母が、花婿にふさわしい花嫁として整えるという目的をもって、りんごの木の下で、ずっと花嫁のために、産みの苦しみをしていたのである。花嫁は、孤独を感じていたときでも、ずっと、母の愛のとりなしの祈りの中にいたのである。

献身への思い
 「私を封印のようにあなたの心臓(ヘブル原語のleb〔心〕)の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。」(雅歌 8:6)と、りんごの実を十分に味わった花嫁は願う。古くから、石や金属などにさまざまな模様や像を刻み、印章にして、封印として使われていた。この封印はひもを通し、胸の辺りに掛かるように首からかけていたり、または、右の手に指輪にしてつけていたりした。封印は、所有を表わす鍵の役割を果たすものであった。今の割印をイメージしていただければ、わかりやすい。ここで見られるのは、花嫁の献身の願いである。成長した花嫁は、花婿の心の上にしっかりとつけられ、また、腕の上にしっかりとつけられ、歩むことを強く願っている。腕はヘブル原語では「腕,肩,力,腕力,(政治・軍事的)力」である。花婿の力を帯びて、出て行こうとする花嫁。
 「愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」(雅歌 8:6)神であられる主は、ねたむほど強く愛されるお方であることが、聖書のあちらこちらで、描かれている。「主であるわたしは、ねたむ神」(出エジプト 20:5)「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」(申命記 4:24)「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」(ヨエル 2:18)「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(ゼカリヤ 1:14)などである。十字架の死という究極の愛、この死のように強い愛は、愛するものを奪う敵に対しては、よみ(抵抗し、拒むことのできない絶対的なもの)のように激しくねたむものでもある。それは、焼き尽くすすさまじい炎のように、激しいものである。不義に対しては、激しい炎をもって、対処する愛。この神の愛(アガペーの愛)を、花嫁は本当の意味で、理屈ではなく体験により、知ったのである。この愛があるなら、恐れるものなどない。この愛の中にとどまった花嫁は、この愛を受けたから、献身を表明したのである。
 続けて、花嫁が知った愛の力が述べられている。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌 8:7)すさまじい炎のような勢いをもった愛。大水も洪水も、その炎を消したり、流したりできない。カルメル山で、バアルの預言者たちと対決したエリヤがもたらした神の火に見られる愛である。リバイバルの炎である。神とバアル、どっちつかずによろめいていたなまぬるい民たちの前で、エリヤとバアル預言者は、それぞれ祭壇を築いた。火をもって答える神が、真の神であると。バアル預言者たちが、まず先に、バアルの名を呼んで、祭壇のあたりを躍り回った。朝から真昼まで呼んだり、踊ったりしていたが、何も起こらない。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」というエリヤに、自分たちの愚かさを悟ろうとも、間違いに気付こうともせず、バアル預言者たちは、さらに、大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることをした。ささげ物をささげる時(夕のささげ物で、普通午後3時頃からささげられる)まで、騒ぎ立て、頑張っていたが、当然の結果ではあるが、無駄であった。次に、エリヤが、壊れていた主の祭壇を建て直し、祭壇の周りにみぞまで掘り、全焼のいけにえの一頭の雄牛とたきぎに、たっぷりと(三度とある、三は完全数)水を注ぎ、みぞを流れるほどに、水を満たした。エリヤが「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」と言うやいなや、天から主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った(T列王記 18:18-39)。主の炎が、エリヤを通じて、リバイバルを起こしたのである。同じように、花婿の愛を流す管となった花嫁から注ぎ出される大水にも洪水にもびくともしないすさまじい炎のような愛は(花嫁自らの愛であったなら、大水どころか、小雨でも、しおしおになりやすい頼りない火であるかもしれないが、火の基は、花婿なのである)、リバイバルをもたらす愛となるのである。
 「もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(雅歌 8:7)かつては、花婿に寵愛されていても、母の子らに愛されたい、エルサレムの娘たちや夜回りたちや城壁を守る者たちに親切にされたい(愛されたい)と、孤独を感じていた花嫁であったが、今や、愛という性質を体験的に知った。愛は、得よう得よう、欲しい欲しいと、がむしゃらにそのための努力をすればするほどに、そして、たとえ、自分の財産をすっからかんになるまでに、ことごとく与えるほどにまで、頑張っても(そのような頑張りは、自我である、私たちのなすべき努力は、「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Uペテロ 1:5-7)である。)、ただのさげすみしか得られないものであるのだと。愛は、得ようと努力するものではなく、一方的に与えるものであり、花嫁が、花婿の大きな愛に気付き、以前よりも花婿を愛するようになったと同じように、花婿を模範として与え続けていれば、愛を持っているものならば、必ず、自分が花婿に応答したように、その愛に応答してくるものなのだと、知ったのである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。花嫁が献身を表明して、更に時が経っていったようである。

私たちの妹へ
 「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう。」(雅歌 8:8)時間が過ぎて、花婿と花嫁の働きによって、妹ができた。「私たちの妹」とあるが、花嫁の献身の結果、救われてくる人は、花婿と花嫁の妹である。救われたての若い妹。まだ愛(乳房で象徴)も知らないような幼い妹。彼女が、花嫁として召される日には、「彼女のために何をしてあげよう。」と配慮する花婿。「もし、彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建てよう。」(雅歌 8:9)もし、彼女が、城壁のように妥協なく堂々と救いという土台の上に立つゆるぎない者であったなら、その上に、銀(贖い)の胸壁(ヘブル原語の「野営,駐屯,石壁,宮殿,石段,狭間胸壁」)を建てようと、贖いというゆるぎない敵からの守りを置くことを約束する花婿。「もし、城壁だったら、」という条件があることに注意したい。救われた後、ぐらぐら歩んでも敵からの守りはOKとは言っていない。「彼女が戸であったら、杉の板で囲もう。」(雅歌 8:9)もし、妹が、戸(ヘブル原語の「戸,戸口,門」)のように、出入りの多い門のように、スカスカ何でも通すような者であったなら、杉の板で囲もう(ヘブル原語の「敵意を示す、包囲する、作る、制限する、抑制する」)と言う花婿。杉は、聖めの象徴である。杉の板は、聖めの板である。聖めという柵で包囲し、制限を設けようと言っている。
 「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。それで、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」(雅歌 8:10)花嫁のことばである。今の花嫁は、城壁のように、妥協なく堂々と立つゆるぎない者となっている。また、花嫁の内には、やぐらのように、高くそびえ立つ愛が形成されている。花婿による銀の胸壁と、杉の板によって、つまり、花婿の配慮ある愛の守りによって、花婿の目に、平安をもたらす者のような(花婿に喜ばれているような)、今の自分になったのだという証しのことばである。この後、ヘブル原語の段落記号・ヌン、段落を表わす語が入っている。妹ができて、また、時が経っていった。

すべての者の中で高く上げられた花嫁
 ここからの3節は、花婿でも花嫁でもない、第3者のことばのようである。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があった。」(雅歌 8:11)バアル・ハモンの位置は、不明とされている。バアル(ヘブル原語の「主、夫、所有者」)、ハモン(ヘブル原語の「群集、豊かさ、富」)で、バアル・ハモンは、「群集の主」という意味がある。ソロモン(花婿)には、「群集の主」という所にぶどう畑があった(大勢の信者があった)。「彼はぶどう畑を、守る者に任せ、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。」(雅歌 8:11)花婿は、その群れを、「守る者、管理する者」に任せ、その者たちは、おのおのその収穫によって銀千枚を納めることになっていた。「おのおのその収穫によって」とあるが、「銀千枚」と決められている。銀は聖書では、贖いの代価として支払うものである。千は、10(十全)×10×10(三次元すべて完全)で、また、千年王国の千年の統治に見られるように、平和の象徴である。完全な平和。花婿なる夫から、花嫁なる妻を預かった者が、花嫁なる妻を夫に返す時に、銀千枚支払った例が、創世記にある。アブラハムはその生涯で、サラを、二度、妹であると偽った。二度目、ゲラルでのこと、王アビメレクは、サラをアブラハムの妹だと思い、召し入れたわけだが、夢の中で、神にとどめられた。アビメレクは、サラをアブラハムに返したとき、アブラハムではなく、サラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」(創世記 20:16)銀千枚は、夫アブラハムからサラを預かった(実際は、だまされてであったが)アビメレクが、サラを夫のもとに返すときに、平和のうちに、サラを、すべてのものから守り、すべて、正しいとされるために、夫アブラハムに支払われたものであった。こう説明していても、ややこしいのだが、ぶどう畑を任せられた者(花婿から花嫁〔ここでいう花嫁は、今までずっと見てきた花嫁ではなく、後に続いてきた花嫁なる信者(妹)たちである〕なる信者を預けられた者)が、花婿に納める銀千枚は、預かっている花嫁なる信者のために支払われるものなのである。何のためにか。花嫁なる信者がすべてのものから守られ、すべて、正しいとされるために、である。完全な平和を保つためにである。自分のもとにいる花嫁なる信者は、自分のものではなく、花婿のものであることの表明でもある。花婿のものであることの自覚がないなら、花嫁はどのように扱われるかわからない。
 「私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。」(雅歌 8:12)ぶどう畑を任された者のことばである。花婿に、銀千枚は、先程と同じ花嫁なる信者のための代価である。「その実を守る者には銀二百枚。」実を守る者への報酬。この二百枚は、銀千枚と合わせて、千二百枚となる。十二は、統治に関する数。実を守る者へ、報酬として、御国の一部の統治が任されることの型であろうか。二はまた一致の数でもある。統治は、一致をもってなされなければならない。
 「庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせよ。」(雅歌 8:13)12節の後半からは、ソロモン(花婿)に向かって呼びかけている。庭園の中に住んでいる仲間(ヘブル原語のchaber「〔1)団結した 2)共同者,友,礼拝者 3)仲間〕」)たちは、花婿のことばに耳を傾け、指示を待っている。指示を聞かせてくれるように言っている。
 雅歌の最後は、花嫁のことばで締めくくられる。「私の愛する方よ。急いでください。香料の山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 8:14)「私の愛する花婿よ、急いで来てください。ぶどう園の管理者たちが、あなたの声を聞きたいと、指示を待っていますよ、急いでください。よいかおりをただよわせている山々の上にいるさっそうと雄々しいかもしかや若い(雄)鹿のように速やかに駆けつけてください。」花嫁は、管理者や実を守る者など、ぶどう園で働く者たち、また、礼拝者など庭に住む仲間たちよりも、高い位置に上げられ、花婿といつもともにいて、その者たちの間に立って、とりなす者となっていた。
 後半部分は、とりわけ難解な箇所であった。しかし、こうして、後半4節(11節から14節)を見ていくと、天の様子がかいま見えるような箇所であった。雅歌に出てきた人物は、花婿に対して、花嫁、エルサレムの娘たち(おとめら)、花嫁と同じ母の子であるが花嫁ではない者、町を行き巡る夜回りたち、イスラエルの勇士たち、王妃たち、そばめたち、ぶどう畑を守る者たち、実を守る者たち、庭に住む仲間たちである。重複しているものがあるかもしれないが、すべての者が、花嫁ではないことが、雅歌で明らかにされている。たとえで、奥義が語られる理由は、「確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟ら」ない人たちがいて、その人たちが、「悔い改めて赦されることのないため。」である(マルコ 4:12)と、主イエスは言われた。雅歌は、御名のために、迫害などの苦しい中におかれ続けているクリスチャンたちに、多くの慰めを与え続けている愛にあふれた書簡である。

落ち穂の会提供
posted by CVSA事務局 at 22:33| Comment(0) | 雅歌

2015年07月04日

『キリストの花嫁 10』雅歌 7:10-8:4

間が空いてしまったが、雅歌の続きを見る。前回までで、「花嫁のことばは、良いぶどう酒のようであり、花婿の愛に対して、なめらかに流れ、眠った者のくちびるをもその愛で満たす」と花婿が、語ったところまでを見た。花婿の愛によって、花婿だけをまっすぐに見るよう成長を遂げ、目覚めた花嫁。
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『ヘンナ樹の花の中で−動かぬ平安−』雅歌 7:10-8:4(新改訳聖書使用)

花婿からの賛辞への花嫁の応答
 花婿の自分へのあふれんばかりの愛を知り、花嫁は答える。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」(雅歌 7:10)もう以前のように、壁を作ったり、自分の殻にこもったりして、花婿を拒否したりはしない。「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)この広く、長く、高く、深い人知を越えた花婿の愛を、花嫁は知ったのである。知ったからこそ、花嫁は、心の底から、自分のすべてをゆだねたいと思い、このように言えたのである。「私は、私の愛する方のもの。」と。2章16節では、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」6章3節では、順序が変わって、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」と、自我が砕かれ、成長していた花嫁、今度は、「私の愛する方は私のもの」がなくなっている。3段階の成長が見られる。花嫁は、「私の愛する方は私のもの」という自我の主張をしなくてもよいほどに「あの方は私を恋い慕う。」と、花婿に愛されていることを、知ったのである。

動かぬ平安
 かつては、「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:10)、また、「わが愛する者よ。戸をあけておくれ。」(雅歌 5:2)という花婿からのことばに答えなかった花嫁であったが、花婿の人知を越えた愛を知った花嫁は、今度は、自分のほうから花婿に、誘いかける。「さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。」(雅歌 7:11)花嫁の心には、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ 16:15)というみこころに積極的に従う準備ができたのである。「野」ヘブル原語では土地,畑,野。「野に出て行って、・・・」は、“Let us go・・・”<英欽定訳(New King James Version Bible)>である。花嫁は、「私たちは、世の中に出て行って、「ヘンナ樹」(平安)の花が咲誇る中で、「夜」(暗闇)を過ごしましょう。」と言っている。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇 23:4)に見られる平安である。どのような中にあっても動かない平安は、成長した花嫁なる信仰者のもつしるしである。使徒の働き6,7章の殉教者ステパノは、自分を殺そうとする多くの敵たちの前でも、「彼の顔は御使いの顔のように見えた。」(使徒 6:15)と、動かない平安の中にいた。また、ペテロが、妻たちに勧めているのは、サラのような平安であった。「あなたがたの飾りは、〔念入りに〕髪を編み<結び>、宝石類を身につけ、着物を取り替えるなどという、〔単なる〕外面の飾りでなく、穏やかで平和に満ちた霊という朽ちることのない<色あせることのない>魅力を持つ、内的な飾り<心の〔奥深く〕隠れた人の持つ美しさ>でなければなりません。これは〔その霊は〕<不安を感じたり、興奮していらいらしたりすることのない霊で>神のみ前にきわめて価値の高いものです。」(Tペテロ 3:3,4<詳訳>)

 ある時、教会で祈っていた時、神の御前に、悲しみを注ぎだした後、目の前が黄色に染まった幻を見た。ぼんやりした黄色の中にいて、それが花畑かどこかの中かわからなかったのだが、なんともいえない平安が注ぎ込まれた。「ああ、平安〜。」という感じでひたっていたのだが、何のことか、何で黄色なのか、ずっと不思議であった。この11節のみことばを見たとき、ああ、このことだと、直感したので、ヘンナ樹の花を調べてみた。白色の小花が房状になっている潅木ということで、見たものは、この花ではなかった。ヘンナの葉は、黄色、黄褐色、黄土色の染料、顔料に使われる。日本でも、ヘナというトリートメント入り髪染めでおなじみである。このヘンナの染料である赤みがかった黄色、平安の色で染めてくださった現われであった。何かあっても、この時の平安を思い起こすなら、平安に包まれるのである。

 「一緒に、世の中に出て行って、平安の中で、暗闇の中を過ごしましょう」と申し出る花嫁。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。花婿とともに、平安の中で、野で夜を過ごし、時が経っていった。

愛から出た奉仕
 「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。」(雅歌 7:12)苦とも思わず、喜んで、花婿と一緒に世に出て行こうとする花嫁の姿。花嫁にとって、福音の働きは、労働ではなく、愛の自然の行為であることが、わかる。ここに、労働をうかがわせることばは、使われていない。いやいや先延ばしに、日も高くなってからとか、日が傾きかけてから、重い腰を上げて行くのではなく、朝早くから、ともに、出て行くことを待ちわびているのである。花嫁は、おいしいぶどうの実の収穫が予測されるぶどう畑に行き、何をしようとしているのか。3つのことが書かれている。
 @ぶどうの木が芽を出したかどうかを見て、愛を花婿にささげる 「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。(ヨハネ 15:4,5)と言われているこのぶどうの木から出た芽、芽吹いたばかりの、信じたばかりの信仰の赤ちゃんが生まれたかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。
 A花がさいたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ぶどうの花は、褐色の小さな米粒くらいのものが、房状に密生する。目立たないが花が一面に咲いているときには、「ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。」(雅歌 2:13)とあるように、ほのかな香りがするそうだ。決してきれいとは言えない花であるが、おいしい実をつけるのには欠かせない地味で目立たない花、目立たないが、ほのかにイエスのかおりを放っている若い信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。
 Bざくろの花が咲いたかどうかを見て、愛を花婿にささげる ざくろ(愛)の花は、赤く鮮やかな花である。多くの愛の実をつけるための花、成長している信者がいるかどうかを見て、花婿への愛によるお世話をしようとしているのである。「そこで私の愛をあなたにささげましょう。」とあるが、そのようなお世話は、花嫁の花婿への愛のあかしなのである。

抑えられないほどの花嫁の花婿への愛
 「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物があります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」(雅歌 7:13)「恋なすび」というのは、ナス科の春に梅の実くらいの実をつける植物である。青いときには、毒性が強くて食べられないが、黄色く熟すと良い香りを放ち、おいしくなるそうだ。が、麻酔性と下す作用があるという。麻酔作用と、根を抜いた時に、人間の股のような形のあるところから、地中海沿岸の国々では、催淫作用のあるあやしげな植物としていろいろいわれてきたようで、最近まで、催淫作用が信じられていた。ギリシアでは、根をぶどう酒につけたものは、恋を誘発する効き目があると思われ、ラブ・アップルと呼ばれ、不妊の女性に子供が授かるとさえ信じていた。(新聖書植物図鑑<教文館>参照)
 「恋なすびは、かおりを放ち、」恋なすびは、熟れてよいかおりを放っている。花婿への新たな愛が起こされた。「私たちの門(ヘブル原語では戸,門,入口)のそばには」それは、奥にきて、やっと起こった愛ではなく、花婿との関係の入口からあった愛であった。花婿と花嫁の関係は、愛から始まったものであった。今、新たな愛が起こされ、というか、妨げとなるような甘えのような不必要な思いは除かれ、愛が深められ、古くからはぐくんできた愛とともに、すべて、最上の愛をたくわえてきた花嫁。花嫁の愛は、不完全ながらも、その時々で、精一杯の最上のものであった。花嫁の花婿への愛は、なくならず、増える一方である。

 「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに出会い、あなたに口づけしても、だれも私をさげすまないでしょうに」(雅歌 8:1)花嫁の自制の様子が見てとれる。自制は御霊の実の一つである。花婿に愛されているということで、周りの人々から、一方的で理不尽な怒りをかい(雅歌2:6)、そのために苦しみを通った花嫁は、愛の表現を自制することを学んだ。花嫁としての地位と愛の表わし方によっては、周囲から、さげすみやねたみをかいかねない。信仰を守る過程で、人々からさげすみやねたみを受けることが必要なときもあるが、受けることに甘んじなければいけないときというのは、そのことによって、神が栄光を受けられるときである。不必要なさげすみは、人々をつまずかせないためにも、避けなければならない。「ああ、」とため息まじりに、花嫁は言う。外で(働きの最中)、花婿を見出したときに、とびついて口づけしたくなるほどの愛を表わしたい衝動にとらわれても、やみくもに実行してしまえば、周りにいる人々をしらけさせ、さげすまれるだけである。自分にゆだねられた働きも進まなくなってしまう。実際に、そうしたことによって、花嫁は、打たれ、傷つけられ、かぶり物をはぎ取られた経験をしているのである(雅歌 5:7)。そのような経験を経て、自制する知恵がついた。しかし、「もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら」同じ聖霊なる母をもつ信者である兄弟姉妹に対してであったなら、いくら、外で、兄弟愛を表わしても、さげすみは受けないで、かえって、感謝されたり、ほめられたりするであろう。

 抑えきれないほどの愛で、花嫁は言う。「私はあなたを導き、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう。」(雅歌 8:2)花婿を「私を育てた私の母の家」聖霊の住まいである花嫁の祈りの個室に連れていき、香料を混ぜたぶどう酒とざくろの果汁を花婿にふるまいたいと願う花嫁。「香料(単数)を混ぜたぶどう酒」「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」(Uコリント 2:15-17)花嫁の持つ「いのちから出ていのちに至らせるかぐわしいキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる交わり。花嫁の持つかおりは、調和のとれない混ぜ物ではないため、ぶどう酒と調和がとれていて、花婿を喜ばせる、おいしいカクテルとなっているのである。「ざくろの果汁」御霊の実の中でも最上のもの、愛。その愛から取れる果汁、搾り取る汁とは、とりなしのことである。誰にも邪魔されず、花婿への愛を思う存分に表現できる祈りの部屋で、花嫁は、花嫁の持つ「いのちに至らせるキリストのかおり」という香料をブレンドしたイエスの血潮、贖いによる親密な交わりをし、花嫁の愛から取れた果汁であるとりなしの祈りをささげたいのである。

 「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 8:3)2章6節でも言われたこのことば。その時、「左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)などのみことばから、右の手は、力、救いとして表わされている。」と述べた。傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られたいという願いをもって、語ったことばであった。今度は、全く同じことばであり、愛を求めることばでもあるが、前回と異なり、花嫁は、平安の中で、願っている。平安の中での、満ち足りた安らかな愛の表現としての願いである。

後に続く者たちのために
 2章7節や3章5節に続き、3度目の花嫁のことば。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 8:4)前々回や前回と異なり、「かもしかや野の雌鹿をさして」ということばが、なくなっている。2章7節では、傷つき、愛に病んでいた幼い花嫁が、花婿からの愛の表現を願った後、言ったことばであった。3章5節では、一度、花婿を拒絶して、去られ、捜しまわって、見つけ出した後、言ったことばであった。「かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。」と、神に誓ってというふうに力を込めていた花嫁は、その後、再び、花婿を拒絶し、捜しまわり、夜回りたちに打ちたたかれ、「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。」(雅歌5:8)と弱々しく懇願していた。そのような経験をして後、花婿の変わらぬ深い愛を確認した後のことばである。「かもしかや野の雌鹿をさして」とわざわざ力を入れて言わなくても、花婿が与えた聞き従わせる権威を身にまとっている花嫁からのお願いなのである。今回の「あなたがたに誓っていただきます。」は、力をこめたわけではなく、権威からのことばである。ヘンナ樹、平安の中にいてゆるがされることのない花嫁は、自分のためにではなく、後に続く私たちのような者たちのために、誓わせているのである。

 雅歌に3度言われている「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」愛を揺り起こしたり、かき立てたりしようとする言動は、苦しみ弱っている信仰者を、よけいに苦しめ弱らせることになるのだと、知ってほしい。では、「愛を揺り起こし、かき立てる」という言動とは、具体的にどういうことか、ということになるが、「夢が破れても(生ける水の川発行)」に、そのことについてのわかりやすい例があった。要約してみる。
 「愛する人を失い、大きな痛手を負った男性がいて、とても無気力になり、『私は、頑張るのがいやになりました。』と言った。彼の友人たちは心配して、支えになればと、いろいろ努力した。悲しみの処理のし方の本を送った人、愛を伝える手紙を送った人、自分たちが主から励まされたという聖句を添えた人、一緒に祈ったり、ゴルフに行った人・・・。彼ら友人たちが、短い挨拶の後、きまって尋ねることは、『このごろどうですか。』ということであった。何度も繰り返される度に、どんどん嫌な気分は強くなっていった。彼には、友人たちが聞きたがっている答えがわかっていたからである。『大変だが、大丈夫。何とかうまくいっています。』これは、癒されていない彼の真意ではなく、友人たちを安心させるための答えであった。とうとう最後に、彼は、こう答えた。『ええ、まだ本当に大変です。彼女がいなくて、とても寂しいです。どうしたらいいのか、時々、悩みます。でも、もうそんなに落ち込まずに、社交的になって、しなければいけないことを始めるつもりです。いい方向に向かっていると思ってください。心配してくれて、ありがとう。』この最後のことばは、効果があり、友人たちは、ホッとして笑いながら言った。『それを聞いて本当にうれしいよ。ま、皆で祈ってきたんだから驚かないけどね。』この会話から3つのことに気が付いた。
 @彼の友人たちは、自分たちの祈りが、彼が神のみこころを歩み続けることを願うよりも、誰かを元気にすることと関わっていると思い込んでいた。
 Aその思い込みには、『もし聖霊さまが彼に働かれたなら、苦しみから抜け、本当に元気になるはずだ』という考え方と、『神の道を歩むことと、すばらしい気分ですごすことは、同義語である』という考え方が含まれている。
 B彼の友人たちは、悲しんでいる人の魂から距離を置いていた。意図的にそうした訳ではないが、苦しんでいる人とは一緒にいたくないということを暗黙のうちに相手に知らせている。事態を改善した人とだけ一緒にいたいのである。
彼は、友人たちに、励まされるどころか、さらなる絶望と深いわびしさの中に追いやられ、激しい孤独の中へと押し流されていくのを感じた。『私は、もう頑張るのがいやになりました。つい昨日、友人二人が私のことを話しているのを聞いた。一人が、彼はどうしているだろう、と言うと、もう一人が、頑張っているよ、と答えていたので、私は悲鳴を上げたい気持ちになった。』私たちは、人生で、ひどい打撃を受けたとき、誰かに、ありのままの自分を受け入れ、立ち直るまで、ただそばにいてほしいと願う。しかし、その人が求めている理想の姿を演じてまで、一緒にいてほしいとは思わない。良い気分にしてほしい訳でもない。自然の愛からではなく、そのような努力をされると、悩みを深めるプレッシャーとなってしまうのである。ただ、単に愛からお互いに仕え合うことが、どうしてそんなに難しいのだろうか。」

 苦しみの中にある人に、「早く苦しみから抜けろ」と、「苦しみに浸っていないで、イエスの愛を見よ」と、「イエスを愛せ」と、そのような思いから、あれこれ余計なお世話をすることも同様である。自分にもされた経験、した経験が思い浮かぶような、身につまされる話である。祈ってあげることも含まれる(わからないところでその人のために祈ることとは異なる)。苦しんでいる人は、間違っているところは、愛によって助言を与えてほしいと思うが、苦しいという思いについては、苦しんでいる自分のまま、ただ、つらかったねと、抱きしめ、つらい思いを理解し、共感してほしいだけなのである。その人のために祈ることも、みことばの助言をすることも、「元気?」と尋ねることも、一緒にゴルフに行くことも、してはいけないわけではなく、その心が大切なのである。本当に、相手の祝福を求める真実の愛からの行為であるなら、何をしても、相手を突き落とすようなことにはならないのである。愛から、愛からといっても完璧な愛など、神以外だれも持ち合わせていない。自分の持っている以上の愛が必要な事柄なら、直接には、何もせず、何も言わず、ただ、わからないところで、祈っているだけのほうが、賢明である。祈っているうちに、神が、なすべき愛を与えてくださる。愛の押し売りは、避けねばならない。花嫁は、そのことをよく、知っていたから、こう言ったのである。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。

落ち穂の会提供
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2015年05月10日

『キリストの花嫁 9』雅歌 7:1-9

前回は、成長した花嫁が元気になり、周囲にも影響を与えていく様子を見た。花嫁の花婿への愛を見て、エルサレムの娘たちの心に、花婿への飢え渇きが起こり、信仰が覚醒された。神への恐れ、花嫁への恐れ、神への救いの求め、エルサレムの娘の心に起きたこの3つの思いを、二つの陣営の舞という表現で、明確化された花婿。今回は、その後の場面である。
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『良いぶどう酒−眠っている者たちの目覚め−』雅歌 7:1-9(新改訳聖書使用)

花婿から花嫁への賛辞
 再び、花婿の花嫁への賛辞がある。「高貴な人の娘よ。サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ」(雅歌 7:1)花嫁自身が知らないうちに、民の高貴な人の車に乗せられていた花嫁(雅歌 6:12)を、花婿は、「高貴な人の娘よ。」と敬意を払って呼んだ。花嫁の足は裸足ではなく、サンダルをはいたきれいな足であった。足のサンダルをぬぐことは、悲しみの表現の動作のひとつである(Uサムエル 15:30, エゼキエル 24:17,23)。試練を通り抜け、苦しんでいた花嫁は、もう悲しんではいなかった。足は、きれいに洗われ、美しかった。過越しの夜、イエスさまが、弟子たちの足を洗われたことを思い出すが、洗われた足は、罪からの聖めを表わす。「水浴した者は全身きよい」とも言われている(ヨハネ 13:10)。苦しみをぬけ、高く引き上げられた花嫁は、罪からも聖められ、喜びに満ちていた。花嫁のはいているサンダル、「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ。――そして、あなたはわたしのものとなった。それでわたしはあなたを水で洗い、あなたの血を洗い落とし、あなたに油を塗った。わたしはまた、あや織りの着物をあなたに着せ、じゅごんの皮のはきものをはかせ、亜麻布をかぶらせ、絹の着物を着せた。それから、わたしは飾り物であなたを飾り、腕には腕輪をはめ、首には首飾りをかけ、鼻には鼻輪、両耳には耳輪をつけ、頭には輝かしい冠をかぶせた。こうして、あなたは金や銀で飾られ、あなたは亜麻布や絹やあや織り物を着て、上等の小麦粉や蜜や油を食べた。こうして、あなたは非常に美しくなり、栄えて、女王の位についた。その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。」(エゼキエル 16:8-14)ここに、神がはかせてくださった花嫁のはきもののことが書かれている。じゅごんの皮のはきもの、主題からの学び「幕屋(幕)」に書かれているが、「じゅごんの皮は、あざらしやいるかのかたい皮であったと考えられている。その皮は、粗末ながらも耐久性と保護能力にすぐれていた。またその皮は、耐久性と保護能力にすぐれてはいるが、見栄えのしないものであった。栄光の神であられるのに、罪人である人となって来られたキリストのへりくだりを表す。」ということを見た。このへりくだりを、からだの一番低いところにあり、歩みを支配する足にまとっているのである。また、これは、エペソ人への手紙で、信者がつける武具、「平和の福音の備え」とも呼ばれているものであった。「足には平和の福音の備えをはきなさい。」(エペソ 6:15)へりくだりがないと、平和は作れない。罪から聖められ、喜びに満ち、へりくだりを一番低いところにつけた花嫁の美しさに、花婿は、感動しているのである。
 「あなたの丸みを帯びたももは、名人の手で作られた飾りのようだ。」(雅歌 7:1)ヘブル原語の「もも」は、「もも,腰,わき腹,基部」であり、歩みをコントロールする部分である。とげとげしていない丸みを帯びたもも、脚線美が語られる。そのももは、名人の手で作られた飾り(ヘブル原語では装飾品、宝石類)のようであると言われている。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ 2:10)陶器師であり、名人であるキリストは、花嫁のために、完璧な歩みを備えていてくださるのである。その歩みは、険しく見えたとしても、御手にすっぽりと守られ歩むもっともまろやかな最善の道であり、振り返ってみると、その歩みは、他の者たちの目からみても、みごとな装飾品、宝石を生み出すわざであったということが、明らかになっていく。

 「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯。」(雅歌 7:2)ほぞとは、ヘブル原語の「へそ、へその緒」であり、からだの中心にあり、母親から、栄養を取り入れたところである。肉や野菜が不足しているパレスチナにおいては、パンとぶどう酒は、食事の中心であった。普通、泥酔を避けるため、ぶどう酒1か2に対して、水3の割合で混ぜ合わせて、薄めて飲んだ。混ぜ合わせたぶどう酒とは、聖書に1度しか出てこないことば(ヘブル原語のメゼグ)が使われていて、辞書によると、“mixed wine、meaning to mingle (water with wine) ”とある。そのように、飲みやすく調合されたぶどう酒である。人々を潤し養う、尽きることのないぶどう酒があふれている丸い杯に例えられたほぞとは、母なるご聖霊から尽きることのない混ぜ合わせたぶどう酒による栄養をいただき、満たされている花嫁の描写である。「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。」(雅歌 7:2)腹は、子供を宿すところである。ゆりの花は、へりくだり、小麦は、収穫を表わす。花嫁のへりくだりは、やがて多くの収穫を産む。多くの霊の子孫をみごもっている花嫁の描写。

 「あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、二頭の子鹿。」(雅歌 7:3)4章5節でも、花嫁は、「あなたの二つの乳房は、ゆりの花の間で草を食べているふたごのかもしか、二頭の子鹿のようだ。」と言われていた。乳房、赤ん坊にミルクを飲ませる乳房は、愛、愛情の象徴であった。雄鹿は防御のときは、その角で戦うこともするが、通常は、平和を愛する平和な動物である。まして、子鹿は、戦いなどしかけない。花嫁のバランスがとれた二つの乳房は、片寄ることのない愛のバランス、平和の一致の愛を描写している。

 「あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)4章4節でも、「あなたの首は、兵器庫のために建てられたダビデのやぐらのようだ。」と言われていた。首、すなわちうなじは、意志を表わしていた。1章10節では、花嫁の首は、宝石の首飾り、“chains of gold”「金(神の神性)の鎖」で飾られた、つまり、主に明け渡された意志であった。4章4節では、兵器庫のために建てられたダビデ(ヘブル語の「ダビデ」=「愛されている者」)のやぐらに例えられていた。武器を保管するために建てられたやぐら。愛のために戦う備えができている意志であり、花嫁の成長が見られた。そして、この7章4節では、象牙のやぐらに例えられている。象は、自分の通り道にある障害物を、ほとんど何でも押しつぶしたり、壊したりする力を持ち、ふだんはおとなしいが、怒ると、その象牙で、攻撃するような力をも備えている。更に、成長した花嫁の首は、ここで、攻撃と防御の力を示す象牙に例えられている。
 「あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」(雅歌 7:4)1章15節で、花婿は、「あなたの目は鳩のようだ。」と、花嫁の素直で優しい目をたたえていた。4章1節で、「あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。」と成長した花嫁に対し、へりくだりが加えられている。そして、5章12節では、「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)と、真っ白で、汚れがなく、満たされて、ゆっくり落ち着いている、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目が描写されていた。今、花嫁の目は、「バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池。」と言われている。こう見ただけでは、私たちには、何のことか、さっぱりわからない。「バテ・ラビムの門」「ヘシュボンの池」という材料を、どう料理するかによって、みことばの味わいが異なってくるだろう。「バテ・ラビム」は、聖書において、ここだけに見られる語であり、ヘシュボンの城門のひとつの名前であり、「群衆の娘」という意味をもつ。ヘシュボンは、交通の要所にある大きな町であり、「知性」という意味をもつ。池というのは、魚を囲うためにほられ、水をたたえているものである。池を掘るときには、土を掘って、水を蓄え続けておけるように、石をひく。必要のない泥、石は除かれ、整えられる。「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(Tペテロ 1:5-9)花嫁の目は、不純物を除かれ、近視眼でも、盲目でもなく、自分が罪人であったことを忘れず、信仰に徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛で整えられた池であった。ヘシュボンの池だと思われる巨大な水槽の廃墟が残っているそうであるが、この池は、大きな池であった。主イエスが、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ 4:19)と、弟子たちに言われたように、花嫁もまた、人間を取る猟師となっていて、多くの魚をとる準備ができていた。池は、だれもいないひっそりとしたところにあるわけではなく、「バテ・ラビム」(群集の娘)の門のほとりにあるのである。花嫁は、そのほとりで、どうやって、魚をとるかというと、目、池で表わされているように、涙、とりなしの祈りの涙で、である。池に蓄えられる水は、花嫁の涙であった。聖霊によって、祈りに導かれ、産みの苦しみを通して、流されるとりなしの涙。愛とあわれみに満ちた涙である。この涙は、愚かで、下品な嘆きとは異なり、ヘシュボン=知性の涙でもあった。この涙が多く蓄えられれば、蓄えられるほどに、この池には、魚が大漁にあふれかえるのである。「あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐらのようだ。」(雅歌 7:4)鼻は、嗅覚をもつ器官であるように、悪臭とよいかおり、きよいものときよくないもの、罪と義をかぎわける分別の象徴である。鼻が、酸素を吸い込み、いのちをもたらすように、それは、生きるための分別である。ダマスコは、古くから発展していた商業的にも軍事的にも重要なシリヤの首都であり、"silent is the sackcloth weaver(沈黙は、荒布の織工)"という意味である。このダマスコの方向から、イスラエルの敵が頻繁に攻めてきた。諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れのかおりを運ぶダマスコ。レバノン(聖め)のやぐら、聖くそびえたっているやぐらに例えられている花嫁の鼻は、ダマスコのほうからくる何を見張っているかというと、攻めてくる敵もあるかもしれないが、ここでは、むしろ、レバノン(聖め)と対比して、諸外国からの風、この世の楽しみ、肉の誉れへのいざないである。

 「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(雅歌 7:5)花嫁の頭はカルメル山のようにそびえていた。「カルメル」は、ヘブル原語の「畑、庭、果樹園、新穀、ぶどう園、公園、生産する、豊富な、実り豊かな」である。髪の色は、王の色の紫色である。知識、知恵、統治の力を表わす頭(かしら、head、上部、top)は、実り豊かな王国となっていた。「乱れたふさふさした髪」をヘブル原語でみると、「はち・こね鉢,くぼみ,ふさふさした髪」となっている。欄外をみると、直訳として、「水ぶねの」となっている。「水ぶね」を辞書で見ると、「飲み水を運ぶ船、水をためておく大きな△箱(おけ)、魚を生かしておく水槽、難破して浸水した船」とある。水を蓄えている水ぶねの髪、5章2節で、花婿は、「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれている。」と言っていた。教えやことばをたくさん携えているようすの描写であった。花嫁の髪もまた、このしずくをたくさん蓄えたふさふさとした髪となっていたのである。王である花婿は、この花嫁の髪のとりことなった。

花嫁の美しさへの感動
 喜びに満ちた聖く美しい足、みごとな飾りをなす歩み、尽きることのないいのちの糧であるぶどう酒、多くの収穫をみごもった腹、バランスの取れた平和の一致を保つ愛、攻撃と防御の意志、大漁となるだろうとりなし、世の誘惑に打ち勝つ聖さへの分別、豊かな実の王国を打ち立て、教えやことばを携えもつ髪を持つまでに成長した花嫁を、改めて、感動をこめて、花婿は言った。「ああ、慰めに満ちた愛よ。あなたはなんと美しく、快いことよ。」(雅歌 7:6)花嫁の成長、愛であるキリストの似姿へと近づく花嫁は、花婿にとって、慰めに満ちた存在であった。そして、その姿は、とても美しく、いやみでない快い喜びをもたらす美しさであった。
 
 「あなたの背たけはなつめやしの木のよう、あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」(雅歌 7:7)信者の目的として、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」(エペソ 4:13)とある。成長した花嫁の身たけは、まっすぐにそびえ立つなつめやしの木に例えられている。直立して高く立つ姿から、なつめやしは、正直さを表わす。「なつめやし」のギリシャ語「フェイニクス」は、不死鳥を意味し、やしの葉を広げた形を不死鳥になぞらえている。イエスのエルサレム入城の時、人々がホサナと叫びながら手にしていたのは、なつめやしの枝であった。なつめやしは、勝利の象徴でもある。3節で、ふたごのかもしか、二頭の子鹿に例えられていた花嫁の乳房、愛や愛情の象徴である乳房について、今度は、ぶどうのふさのようであると、述べる花婿。花嫁のバランスのとれた愛は、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができるように成長していた。

 「私は言った。『なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。』」(雅歌 7:8)花婿は言た。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。」と。枝をつかむの「つかむ」は、ヘブル原語では「捕らえる,支える,所有する」である。花婿は、花嫁とともにいて、花嫁の中に宿り、花嫁を支え、所有し、心の王座を占めることを望まれているのである。成長した花嫁には、イエスは、喜んでともに住んでくださるのである。「あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。」これからも、花嫁の愛が、ぶどうのふさのように、他に分け与え、人々を潤し、満ちたらせることができることを、花嫁の息(吐くかおり)が、りんごのかおりのようであることを、花婿は望んでおられる。2章で出てきたりんご(雅歌2:3,5)は、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物であった。花嫁の吐息が、これら主の性質をかもし出すものとなるように、ということである。

眠った者を起こす花嫁の愛
 さらに続けて、花婿は言われる。「あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」(雅歌 7:9)花嫁の口から流れ出ることばは、良いぶどう酒のようだ、と。人々を潤し満足させる良質のぶどう酒。それは、花婿イエスに対してなめらかに流れるものであった。イエスの愛をなめらかに流す管となりきっている口。花嫁のことばにより流されたイエスの愛は、何らかの理由で、信仰の眠ってしまった人々(二つの陣営の舞のエルサレムの娘もそうであった)、救いを待ち望んでいる人々をも、目覚めさせ、イエスの愛に立ち返らせ、その者たちの口にもその愛を満たす力をもたらすものなのである。エゼキエルの預言のしるしとして、死人の骨に満ちていた白骨の谷間で、骨と骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚がおおい、息が入り、生き返って、立ち上がったように(エゼキエル 37:1-10)、また、病で死んだラザロが、4日後、腐っていたような状態から生き返ったように、また、「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ 5:11-16)とあるように、花嫁のことばは、眠っているどころか、そのような死んだ人々をも、生き返らせることができるのである。信仰が死んでしまう死因は、いろいろある。外部からのバイ菌(惑わしの教え)による病であったか、内からの変化(罪)による病であったか、敵との戦いに負けたか、また、不慮の事故(思いがけない災難)であったかもしれない。しかし、イエスの愛は、生き返らせるだけの力があり、その力を流すのは、主のことばを流す花嫁なのである。

 なかなか、進まなかった雅歌であったが、ちょうどよい時に、開いてくださる神の愛をつくづく感じ、偉大なる神に、感謝します。

落ち穂の会提供

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