2017年05月27日

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart5

【「聖書を用いるから安心」か?指導者の解釈の絶対化は危険】

 カルト教団(あるいはカルト化した教会)が、聖書を武器として使うことがあります。指導者は、自分の勝手な、人間的な考えや計画を押し通すために、あるいは信者をコントロールするために、聖書を引用する訳です。「私よりも先生のほうが、はるかに聖書に精通しているのだから、従うしかない」と、信者は思考停止になり、言われたとおりの行動を取ります。
 もちろん、指導者として信者に聖書教育を施すことは必要です。しかし、それがただ、聖書の権威を振りかざし、信仰に有無を言わせず服従させるというやり方であってはなりません。十分な時間をかけて、聖書を説きながら、信者に考えさせ、納得させるのです。聖書の神を信じる指導者なら、強引に計画を進めることなどをせずに、聖霊が指導者の考えの正しさを信者に示してくださるまで、忍耐強く待つはずです。そうした聖霊の働きの中においてこそ、信者がキリストを見上げることを学び、神のみこころを祈り求めるようになり、自立した信仰が養われていくのです。
 「聖書を引用しているから」という理由で、宗教団体(教祖)の教えを鵜呑みにするのは、危険極まりないことです。福音書にあるように、悪魔でさえ、聖書を用いました(マタイ4章1〜11節参照)。また、パリサイ人たちも、独自の律法主義を人に押し付けるために、よく聖書を勉強し、引用しました。聖書を調べておきながら、パリサイ人たちは、その中心的存在であるキリストを認めませんでした。「いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」でした。聖書が正しく理解され、語られる時に、その結果として、人々はキリストのもとに来ます。キリストとの出会いを経験し、キリストとの個人的な関係を築いていくのです。それ以外の結果をもたらす教えは、聖書の悪用なのです。
 パリサイ人の聖書研究の、もう一つの誤りは、自分たちの言い伝えの重視です(マルコによる福音書7章1〜13節参照)。パリサイ人は、先祖から受け継いだ伝統を、聖書と同等視していました。結局のところ、彼らの聖書研究には、様々な「付属品」が付いていた訳です。これも今日、多くのカルトに見られるパターンです。例えば、「聖書に忠実な組織」という看板を掲げているものみの塔協会は、聖書だけでは不十分だという立場を取ります。「忠実で思慮深い奴隷」の助けがなければ、どんなに聖書を読んでも分からない、と言うのです。こうして、協会の刊行物(雑誌・書籍)が聖書と同等の権威を持つものとなります。
 しかし、そのような発想プロテスタントの信仰を否定するものです。宗教改革の三本柱は「恵みだけ」「万人祭司」「聖書だけ」です。プロテスタント・クリスチャンは常に、「聖書だけで十分である」と言う信仰を明確にし、大切にします。
 これに対してカルト化した宗教団体は、「私たちの教祖の解説書を読まなければ聖書を正しく理解できない」とか、「私たちの先生のメッセージを聞かなければ、救われるために必要な知識が得られない」とか、「教会が伝えている福音はもう古いから、新しい啓示が必要だ」というような主張を繰り返すのです。
 「聖書を用いているから、安心だ」という考え方は単純すぎます。自分の考えを権威づけ、正当化するために聖書を利用する人々が多くいます。その教えによってキリストの栄光が現されているか、そのメッセージは聖書の全体と調和しているか、それとも聖書の一部しか取り上げられていないか、などを注意深く考えて、冷静な判断をしなければならないのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年10月6日号


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posted by CVSA事務局 at 11:16| Comment(0) | 教会問題
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