2016年02月18日

「信仰」という名の虐待 Part8 「意見の違いを単純に虐待と結びつけることはできない」

 牧師の考え方や行動に高ぶりによる変化が現れた場合、その教会の信徒もしくは役員、さらにその教会を管轄する教団はそのことを速やかに指摘し、やめさせなければなりません。神学校でも、そうした問題の危険性に対して教育をする必要があります。
 信仰とは個人の内面にかかわるものですから、とても個別的な姿をもつものです。しかし一方ではみことばを通して、教会生活を通して「あるべき信仰のあり方」を考える必要もあります。この二つの姿の中で私たちはバランスをとり、苦しみも受け取り、喜びも与えられ、救いの感謝をもって主の道を生きていきたいと願うのだと私は思っています。個々人でそれぞれのバランスの取り方が違っていて当然です。
 私たちが一致している点は、神様を通して罪人であることを教えられ、イエス様を通して救われた者であるということに尽きると思います。その救いの後に、「救われた者は、みな同じ考え方にならなければいけない」というところに落とし穴があります。例えば、牧師の願いと信徒の願いは一致しない場合もあるはずです。牧師の願いが至上命令なのではありません。みことばにはクリスチャンとしての様々な教えが書かれています。そのみことばをどのように読み、どのように従うのかということに対して大事な理解の助け手となる牧師の役割は大切なものですが、教会を作り上げていくためには、信徒一人ひとりのみことばに対する理解の深まりが必要だと思います。
 クリスチャンがそれぞれいろいろな意見をもっているように、牧師についての考え方も人それぞれです。そのことから、教会の中で信徒と牧師の間に意見の違いが起こることがあります。信徒が牧師に対して不満をもつこともありえます。牧師と意見が違っていたために自分から教会を離れたケースがあります。信徒があまりにも完璧主義者で、また被害者意識をもっていたために教会に来なくなったケースもあります。
 ある女性は、牧師がいつも自分のことをきにかけていてくれないということで大きな不満を持っていました。彼女は教会に来たら、必ず牧師に祈ってもらわなければ気がすみません。しかし牧師は他の大切な仕事もあって、必ずしも彼女のために時間を取れないこともありました。そのうちに彼女は、「牧師は私を嫌っている」「牧師は私を裏切っている」と考えるようになりました。そして教会へ行くのをやめたのです。
 多くの教会に、似たようなケースがあると聞いています。確かに信徒と牧師の間にトラブルが持ち上がることがあるでしょうが、それらすべてが「信仰」という名の虐待ではありません。牧師が信徒を自分の欲望のために管理支配しようとしないかぎり、それは虐待とは言えないのです。信徒が牧師と、あるいはその教会と自分の考えとが違うということで教会を離れるのはその信徒の一つの選択です。ですから、教会の中で起こるトラブルを単純に「信仰」による虐待に結びつけないよう注意する必要があると思います。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年3月10日号


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