2017年05月22日

教会がカルト化するとき 聖書による識別力を養うPart4

【「熱心だから正しい」は誤解 自由を奪い奴隷を生む結果も】

 聖書は、救われるための唯一の条件は信仰であると、終始一貫して語っています(エペソ2章8、9節、テトス3章5節)。この恵みの福音は、自分の弱さや罪を自覚している者にとっては喜ばしい知らせですが、自分はさほど悪い人間ではないと考えている人から見れば、ひどくプライドを傷つけられる話となります。そのような人々は、行いを強調する宗教に共鳴する訳です。
 カルト教団の指導者たちも、ほとんど例外なく、「行いイコール救い」を説きます。それは、彼らにとっては、好都合な教えだからです。カルトにおいては、組織の利益や拡大のために、いかに信者を働かせられるかが永遠の課題ですが、そのためのいちばん効果的で手っ取り早い方法は、「働かない者は救われない」と教えることなのです。
 更に、「神のための奉仕だ」と称して、熱心に働く信者の存在ほど、組織の宣伝になるものはありません。宗教を求める人は、必然的にも、まず、その宗教に入信している人間を見ます。そして、そこで、「熱心だから正しいはずだ」という結論を出すことがよくあるのです。
 エホバの証人の『奉仕年度報告』(伝道報告)を見て、ものみの塔聖書冊子協会に関心を持ったり、確信を強めたりする人々が大勢います。また、第二次世界大戦の時、ドイツのエホバの証人がひどい迫害に耐え、信仰を守り通したという話を聞いて、「この組織こそ神の真の組織であるに違いない」と納得する人も決して珍しくないのです。
 しかし、「熱心だから正しい」という、この単純な考え方には大きな落とし穴があります。問題は、何のための熱心さかということです。つまり、動機は何なのか、ということです。ただ神と人に仕えたいという純粋な心をもって、熱心に奉仕をするなら、それは立派なこととして称賛されるべきでしょう。しかし、その熱心さが救われるためのものになったり、組織に認められるための熱心さであるなら、自己中心的な熱心さになる訳で、決して聖書が勧めている熱心さではないのです。
 カルトの中で見られる熱心さは、まさに、このような間違った熱心さです。そして、使徒パウロも警告しているように、その熱心さによって、自由が奪われ、奴隷が生み出されるのです。
 「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。…キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ4章17節、5章1節)。
 カルトが熱心なのは、伝道戦略に不可欠な要素だからです。多くの場合、新しい人は、カルト信者が一生懸命に活動している姿に引き付けられます。そして、こう考えます。「この人たちは真剣だ。きっと、ここには何か、素晴らしいものがあるに違いない」
 しかし、カルト信者の熱心な活動ぶりに感心する前に、何が彼らをそんなに熱心にさせているか、ということに注目しなければなりません。なぜなら、間違った熱心さもあり得るからです。救われるための熱心さ、仲間として認められるための熱心さ、人の称賛を求めるための熱心さ、ノルマを達成するための熱心さ、自信の無さを隠すための熱心さ、などです。これらの「熱心さ」は、聖書が述べている真の熱心さとは、異質のもので、神の御前で何の価値もない熱心さなのです。(真理のみことば伝道協会代表 ウィリアム・ウッド)
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出典:クリスチャン新聞 2002年9月22日号


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posted by CVSA事務局 at 10:58| Comment(0) | 教会問題