2016年02月17日

「信仰」という名の虐待 Part7 「牧師の高ぶりを助長する信徒たちの責任も大きい」

 その牧師は、外で仕事をしている信徒の休日の行動までも管理しました。牧師の考えはどんどんエスカレートしていき、信徒たちの財産、そして給料までも、献金することを要求しました。中には抵抗した信徒たちもいましたが、それに対して、「彼らは傲慢になり、神様のために自分を捨てて十字架を背負うことができなかった」と言い、彼らをさばき、教会から追い出してしまいました。
 問題があまりにも大きくなったために、同じ教団の数人の牧師たちがこの牧師とも話し合いの場を持ちましたが、彼は全く話に耳を傾けませんでした。逆に牧師たちが帰ってから、彼は教会の役員を集めて、「サタンが私たちの教会を破壊するために彼らを送ってよこしたのだ」と語りました。その後、この牧師は自分の教団から出て単立の教会を始めました……。このような問題は、全世界に起こっています。
 「信仰」という名の虐待において、「私」の意味が大きく作用していることがわかります。虐待をする牧師たちは「私」を中心に考えているので、最後にはだれのことばにも耳を傾けようとしません。もちろん、この牧師たちが急にこのようになったわけではありません。徐々に変わっていったのです。最初のころは、彼らは説教の中で、聖書のみことばの意味と自分の解釈の仕方を区別して信徒に伝えていましたが、次第に、自分の考え方、自分の聖書の解釈以外は正しくないと思うようになってしまいました。
 極端なものですが、一つの例を挙げましょう。アメリカのジム・ジョーンズという人は、人民寺院というカルト集団のリーダーでした。彼はカルト集団を始める以前は牧師でした。最初はとても良い活動をしていたので、彼の牧会していた教会は少しずつ大きくなっていきました。ある日、教会の中で事件が起こりました。ジョーンズが聖書を投げ、そして踏みつけながら「『私』はある。『私』は神である」と信徒たちに向かって言っていたのです。彼の考え方、行動が変わって行きました。1978年11月、南米のガイアナ共和国で、彼と人民寺院の子どもを含めた912人のメンバーが集団自殺するという結果を生んでしまったのです。
 このような問題では、多くの場合、牧師自信だけではなく、信徒たちにも大きな責任があると言えます。それは、「自分たちの牧師は特別な方である」と思い込んでしまうことです。あるいは、神のように見てしまうことです。時には「先生はとてもすばらしい。先生のような方はほかにいません」などとことばにして伝えてしまうこともあります。大勢の信徒がそのように言うと、そうした雰囲気で牧師自信も、「私はすばらしい牧師に違いない」とおごり高ぶった考えをもってしまう可能性があります。牧師自信が、自己中心的に自分の考えが正しいと思い込むばかりではないのです。
 私を含め、どんな人間でも、同じ過ちを犯す可能性があります。教会内に限らず、どんな社会においても、リーダーに立つ人はこのような誘惑の中に身を置いています。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年3月3日号


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