2016年02月16日

「信仰」という名の虐待 Part6 「牧師の言葉を聖書の言葉と思いこませるトリック」

 ある牧師は信徒たちに「私は神様から、みことばによって、テーマを与えられました。それは、『自分を捨てて自分の十字架を背負いなさい』というみことばです」と言い、次の日曜日のメッセージの中で、二つのみことばを中心にして、このテーマについて語りました。それは、コリント人への手紙第一15章31節のパウロのことばで、「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です」と、マタイの福音書16章24節のイエス様のことば、「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。』です。
 その牧師はいろいろな観点から、自分を捨てるということと、自分の十字架を負うということの意味を説明しました。その時は別に何も問題は起きませんでしたが、その後、徐々に牧師の考え方、行動にズレが生じ、信徒たちから過剰な奉仕を求めるようになってきました。それが、結果的に虐待につながっていきました。毎週日曜日に、聖書から、そのテーマに基づいてさまざまなみことばを使いました。そして教会の中に、そのテーマとマタイの福音書、コリント人への手紙第一のみことばを書いた大きな垂れ幕を、壁に掛けたのです。日がたつにつれ、信徒たちの頭の中から、「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」ということばが離れなくなり、いつもどうしたらそのようになれるかを考えるようになっていったのです。
 そこから徐々に信徒たちは、これらのみことばの本来の意味から離れて強迫的にこのことを考えるようになり、それと同時に牧師も、いろいろな行動を信徒に求めるようになりました。「神様のために自分を捨てて、自分の十字架を背負いなさい」のテーマに基づいて、すべてのことをこのみことばに関連づけてしまうのです。
 牧師は、いつも主題説教の中で巧妙なテクニックを用いながら、信徒たちの考え方をコントロールしていきました。最初から露骨に牧師の意図する考えを話すのではなく、自分を捨てること、自分の十字架を背負うことについて、徐々に何回にも分けながら、自分の考えが、あたかも聖書の本当の意味であると信徒たちに思わせるような説教にしていったのです。
 このケースの最大の問題は、説教のパターンが決まっていて、必ず最後に牧師の言うことに対して無批判的に、そして求めていることに対しては忠実に従わなければならないということでした。なぜなら、信徒たちは、本来の正しい聖書の解釈ではなく、牧師のことばを聖書のことばと思い込み、そこにことばのトリックが含まれていることに気づく者はほとんどいませんでした。
 こうして牧師は、次第に信徒たちの生活を管理し始めました。仕事を辞めさせて、教会のためだけに働くことを命じることもありました。もちろんその人たちに、給料も休みも与えられませんでした。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年2月24日号


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