2015年11月28日

「信仰」という名の虐待 Part5 「聖書のみことばが虐待の道具に利用されることがある」

 「信仰」という名の虐待を受けた人たちのカウンセリングを行っていくなかで、いくつかの共通点があることがわかってきました。それは、聖書のみことばを利用した虐待であるということです。相談者は、以前は聖書のことばをとても大切に思っていましたが、今では聖書を読むたびに気分が悪くなるということです。聖書以外にも、その症状は教会を離れた後の普通の生活の中にまで及んできています。あることばを聞くと、激しい混乱と罪責感を感じてしまうというのです。具体的に理解していただくために、いくつかの例を紹介しましょう。
 12年間教会に通っていたその女性は、「世界」ということばを聞くことに強い恐怖を感じています。なぜかというと、彼女は長年にわたり、説教の中で「この場所(教会)以外は、サタンの世界である」と聞かされていたからです。教会を離れた後も、無意識の中で「世界」ということばは「サタン」ということばにつながり、聖書の中、あるいは通常の生活において見聞きする「世界」ということばに過敏になってしまいました。聖書が読めなくなってしまったこと以外に、何とも言えない嫌な気分を味わい、激しい頭痛に悩まされるようになってしまったのです。そのことで良い対人関係を作ることもできなくなってしまったということです。
 一人の男性の教会では、牧師の語る「信仰」とは「牧師の言うことには無批判に従うこと」という意味でした。もう一人の男性の教会では、牧師の語る「献金」の内容が信徒個人の財産すべてにまで及んでいたということです。それは、「信仰の財産すべてを告白しなければならない」というものでした。そればかりか牧師が信徒の確定申告を調べ、信徒自身が献金の金額を決めるのではなく、牧師が信徒の献金の金額を決め、強要しました。
 その後、二人はそれぞれ違う教会に通うようになりましたが、そこでも当然、「信仰」や「献金」ということばが出てきます。「信仰」「献金」ということばの意味はまったく違うものであっても、以前の教会の教えの誤りが整理されていなかったために、激しい恐怖と不信感が募り、二人とも教会に通うことができなくなってしまいました。
 「信仰」という名の虐待というものが、実はまず初めに教会の礼拝で、メッセージを通して行われるということに注意を払わなければなりません。ある牧師は、自分の思いどおりに教会の信徒をコントロールするために主題説教を利用します。また、ある牧師は熱心さのあまり、無意識のうちに、主題説教を通して結果的に虐待を行っている場合があります。
 主題説教をする時に気をつけなければいけない大切なことは、テーマが第一ではなく、神様は聖書のみことばを通して何と言っておられるかに注意を払うということです。危険なのは、テーマのために聖書のみことばを自分の都合のよいように用いたり、自分が言いたいことを聖書で権威づけして語ってしまおうとすることです。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年2月17日号


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2015年11月21日

「信仰」という名の虐待 Part4 「人格無視の『告白儀式』で人を奴隷化する権威主義的構造」

 「信仰」の名のもとで虐待が起こる教会で、牧師は信者を獲得するために良き理解者を装っています。「愛のシャワー」を浴びた人たちは強い義理を感じているので、本心を伝えることが難しくなります。このような環境の中で、信者たちは質問や批判をすることができなくなってしまいます。批判することに対し、強い罪責感を感じているからです。彼らが質問や批判をしたなら、牧師や長老たちは「あなたの批判は牧師、教会や神様に対しての冒涜である」とか、「今まで私たちはあなたを愛してきたのに、なぜこんなわがままを言うのですか」「あなたは霊的におかしくなっている」「あなたは神様を悲しませている」などと責めます。
 『マインド・コントロールの恐怖』という本の中でスティーブン・ハッサン氏は、告白の儀式についてこう述べています。「『告白』の過程と結びついて、罪と恥の意識をかきたてる源泉になっている。どのくらい強烈かは
別として、イデオロギー的運動というものはかならず、その人の罪と恥という心理的仕組みを掌握して、その人の変革に強烈な影響を与えるのである。これは『告白』の過程の中で行なわれる。そしてこの過程がまた、それ自体の構造を持っている。人々が自分の罪を告白する集会には、まわりからのきまったパターンの批判と、そして自己批判がつきものである。」
 一般にクリスチャンは神様とイエス様によって罪を赦していただくために「悔い改めの祈り」を行い、その赦しによって心が解放されますが、「信仰」という名の虐待が行われている教会では、「悔い改めの祈り」は意味が全く違います。それは、「告白の儀式」ということばの方が当てはまると思います。
 その内容は、信者の人格を無視して、牧師と教会の意向に沿わない思想、感情、行動をすべて告白しなければならないと要求され、個人のプライバシーをすべて奪うものです。そうすることで、牧師あるいは教会に対しての批判や疑問を感じることが「罪」であると思うようになります。心が解放されるよりも、自責感に苦しみ、牧師や教会の考えに無意識のうちに自分も合わせなければならないと感じるようになります。さらに牧師にすべてを告白しているので、牧師はそれを利用し、いろいろな場面で脅してきます。
 「信仰」という名の虐待が行われる教会の人間関係は、ピラミッド型になっています。横の関係が全く許されていません。縦のつながりのみを重視します。その関係の中で牧師はすべてを支配します。どんなことでも、信者たちはお互いに相手の行動を牧師に密告します。「あるメンバーと話をするために、いつも夜になってから、だれにも見られないように隠れて会わなければならない」と一人の信者が証言しています。
 こうしたシステムによって牧師は信者の生活のすべてを管理することができます。それによって信者たちは物事を考える時間を奪われ、なかなか現実を見ることができなくなるのです。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年2月10日号


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