2015年10月05日

「信仰」という名の虐待 Part3 「まず愛のシャワーを注ぎ恐怖と罪責感と威嚇で服従へ」

 世界の専門家は「『信仰』という名の虐待」について、だいたい似たような見解を持っています。それが虐待であるかどうかを見分けるには、その教会の信じるものや教義を十分に見分けなければなりません。中でも、人間の尊厳や自由、人権をいちじるしく侵害する策略や行動があるかどうかを観察すべきです。つまり、それが有害か、あるいは非常に危険であるかどうかを調べるのです。
 「信仰」の名のもとに虐待を行う教会は、信者たちを支配するために、恐怖、罪責感と威嚇を使います。どんな命令でも信者たちは牧師に従わなければなりません。信者たちの判断ではなく、牧師と、その牧師の聖書の教えの判断が必ず正しいのです。どんな問題に対しても、最後に牧師だけが決断することができます。牧師と教会の聖書の解釈に対する批判は許されません。牧師は聖書のみことばを使い、信者たちを家族、友達や一般社会から受ける批判的な影響から遠ざけようとします。
 信者たちは、牧師や教会に対して少しずつ批判する能力がなくなっていきます。最終的に、牧師と教会に全く依存するようになってしまいます。依存する状態が完全にできてしまうと、牧師は信者の考え方、感情、行動をすべて支配することができます。信者たちにとって、牧師と教会の精神的な支えを失うことに対する恐怖が、だんだん大きくなり、自分で判断することが難しくなるのです。
 信者たちの間に牧師と教会に対する批判があったり、あるいは教会から離れたいという思いがあったりづる時に、牧師や長老たちは彼らに対していろいろな脅しを行います。たとえば、「あなたは地獄に落ちる」とか、「神様はあなたを永遠に許さない」とか、「あなたはサタンのものになる」などと信じこまされるのです。彼らは、その教会から離れることは神様を捨てることだと信じています。そのような恐怖を植えつけることにより、結果的に、信者を完全に服従させることになるのです。
 確かに牧師は聖書のみことばを使っています。けれども一部分だけです。聖書の文脈、歴史的背景、原語を無視して、勝手に独自の解釈をつくり、信者に教えます。部分的にではありますが、聖書を使うので、信者たちは聖書を見るたびに、牧師の独自の解釈を聖書の教えだと思い込みます。
 多くの被害者の証言によると、そのような牧師に出会った時の印象は、それまでに出会ったこともないようなカリスマ的な存在で、霊的で、優しく、情け深く、理解のある人物だったというものです。彼らはその後、「こんなひどい目に遭うとは夢にも思いませんでした」と説明します。
 これは、破壊的カルトの中でよく使われている「ラブ・ボミング」(愛のシャワー)というテクニックです。とにかく信者にさせるために、その人に好意の雨を降り注ぎます。その人をほめます。よく笑う人であれば「明るいですね」とほめます。笑わない人であれば「まじめなんですね」とほめます。あらゆる点についてその人をほめるのです。(マインド・コントロール研究所所長 パスカル・ズィヴィー)
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出典:クリスチャン新聞 2002年2月3日号

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