2015年04月15日

魔術師シモン

 使徒の働き8章に、魔術師シモンのキリスト教徒への改宗の記事が描かれている。

8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。
8:9 ところが、この町にシモンという人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。
8:10 小さな者から大きな者に至るまで、あらゆる人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だ。」と言っていた。
8:11 人々が彼に関心を抱いたのは、長い間、その魔術に驚かされていたからである。
8:12 しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。
8:13 シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。
8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
8:18 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、
8:19 「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。
8:20 ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。
8:21 あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。
8:22 だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。
8:23 あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」
8:24 シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」
8:25 このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後、エルサレムへの帰途につき、サマリヤ人の多くの村でも福音を宣べ伝えた。


 このシモン・マゴスは、以前から魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。(使徒 8:9)
サマリヤの群衆は、ピリポの行なうしるし(癒しや奇跡)を見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。(使徒 8:6)
ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じたサマリヤの人々は、男も女もバプテスマを受けた。(使徒 8:12)
シモン・マゴス自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしとすばらしい奇蹟が行なわれるのを見て、驚いていた。(使徒 8:13)

 ここまでは、まだよかったかもしれない。
ある日、信じたサマリヤの人たちのもとに、エルサレムから使徒ペテロとヨハネが送られた。
ペテロとヨハネが、サマリヤの信者たちに、聖霊を受けるように祈り、手を置くと、サマリヤの信者たちは聖霊を受けた(感覚だけではなく、他の人たちの目にみえる現象があった)。
今まで見たことのない現象を見たシモン・マゴスは(しるしやある程度の奇蹟は魔術にもあっただろうが)、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。(使徒 8:18,19)
この後、シモン・マゴスは、お金で聖霊の賜物を買おうとしたことで、ペテロの叱責を受け、「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」と懇願した(使徒 8:18-24)。

 シモン・マゴスについて、聖書は、ここまでしか書いていない。
ただ、「このようにして、使徒たちはおごそかにあかしをし、また主のことばを語って後…」(使徒 8:25)と使徒たちが主をあかししていったということだけが書かれている。
罪について甘く見てしまうなら、ペテロの言った「この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」(使徒8:22)という言葉をもって、この後、シモンは悔い改めて信仰を送った、めでたし、めでたしとしたいところである。

 しかし、その後、シモン・マゴスは真理から外れてしまったのである。
「彼は、必ずしも、完全なグノーシス主義ではなかったが、 教父たちはシモン・マゴスを異端の父、いくつかのグノーシス主義の産みの親、初めてグノーシス主義の要素をキリスト教に結びつけた人物とみなしている。 彼は、「偉大な啓示」というグノーシス主義の文書の著者とされている。シモン・マゴスは、サマリヤ人のメシアになったのみでなく、シモンは第一の神、 あるいは至高神と自称しさえしたという。シモン・マゴスが起こした宗派(セクト)の一つはシモン派と呼ばれ、世界を救うためにシモンはこの世に来た、と主張した。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 39-40頁)

 ※ キリスト以前からあり、キリスト教にも取り入れられた異端に、グノーシス主義があった。 これは、「ギリシア、ユダヤ、オリエントの思想を吸収したもので、物質界は悪であるので、善なる神が物質界を創造したことはありえない、 堕落した霊的存在であるソフィア(知恵)の子供が物質界を造ったのである。そして、救いは、信仰と愛だけで得られるのではなく、 哲学的知識や直感、魔術的儀式や教え、秘密の知識の伝授によって得られる。」というものである。

 改めて、シモンの懇願のことばをよく見てみよう。「私に起こらないように」「私のために」自己中心の内容である。しかし「自己中心→神のみこころに」というのは、信じた誰もが通る聖別の道であり、聖められる可能性もある。そのため、ペテロは助言している。が、彼は、結局、主というお方を知ることができずに、真理から外れてしまったのであった。
 シモン・マゴスのように、キリストを信じても、悔い改めに向かわず、欲に支配されるなら、主ご自身を否定する異端を生み出す危険がある。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Uペテロ 2:1-3)

 「キリスト教異端派の創始者には、どれほど小さい宗派(セクト)でも必ず、正しいのは自分であり、既成の教会は、 誤っていることを時が証明するであろうという同じ期待がある。」(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 20頁)

 聖書にも、異端的教えは見られる。
割礼や律法に従うことも強いずに、異邦人キリスト教徒を受け入れていたパウロに反論して、ユダヤ人キリスト教徒は、「割礼と律法の遵守を行わなければ、救われない。」という主張を立てた。 これが、激しい論争となったので、エルサレム会議を開き、『聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。』」(使徒 15:28,29)という決定を下した。
 このユダヤ人キリスト教徒の系統は、パウロの死後数世代間、4世紀か5世紀に至るまで、教会内部の少数の異端者として存続していた。(「異端の歴史」D・クリスティ=マレイ著 教文館発行 29頁)

posted by CVSA事務局 at 14:00| Comment(0) | 聖書の人物

2015年04月12日

『キリストの花嫁 7』雅歌 5:10-6:3

『ゆりの花の間で−へりくだり−』雅歌 5:10-6:3(新改訳聖書使用)

万人よりすぐれている花婿
 前回の雅歌5章9節まででは、再び花婿が去り、エルサレムの娘たちに愛に病んでいると伝えてくれるよう誓いを願う花嫁に、花婿の何がほかの愛人よりすぐれているのかとエルサレムの娘たちが尋ねたところまでを見てきた。9節で2度繰り返されている「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか。」「ほかの愛人」(雅歌 5:9)とあるが、花嫁に愛する人が数人いて、「花婿以外の愛人」がいるということではなくて、「他の人の愛する人」という意味で、他の人が愛する人を愛する愛にまさる花嫁の強い愛を見て、他の人の愛する人より花婿の一体何がすぐれているのかと尋ねているのである(ややこしくなりましたが…)。エルサレムの娘たちは、花嫁が花婿について、こんなにも心動かされ、他の何も手につかないほど心が占められ、はらはら動揺し、興奮している理由がわからなかったのである。花嫁の愛する方は他の愛する人より何がすぐれているのか、このように尋ねられた花嫁は、花婿について語る。「私の愛する方は、輝いて、赤く、万人よりすぐれ、」(雅歌 5:10)「わが愛する者は白く輝き、かつ赤く、万人にぬきんで、」<口語訳>“My beloved is white and ruddy(血色のよい),Chief among ten thousand.”<New King James Version Bible(英国欽定訳)>まず、花婿の色、全体像について語る花嫁。白く輝いて、かつ赤いとはどういうことか。「主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。」(詩篇 18:13)主なる神は、雹、氷の粒の冷たい厳しさ=聖なる義と赤く燃え盛る火の炎の激しく熱い愛を合わせ持つ特別な輝きを放っておられる、万人よりも比較にならないほどにすぐれた特別な、王の王、主の主なるお方である。

 「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く、」(雅歌 5:11)花嫁は、花婿の頭から足までの身丈について述べる。頭(かしら、head、上部、top)は神の性質を現す純金であった。「なつめやしの枝」は、高いなつめやしの木の上のほうで、枝が垂れているように、髪の毛がふさふさとうねっていることを表現している。その髪は、烏(カラス)のように黒い。烏(カラス)は、腐敗物の掃除をする鳥(とり)である。罪なる腐敗した性質を取り除くために、イエスはこの世に来られ、十字架にかかってくださったのである。神性の純金の頭を覆っているのは、烏(カラス)のような黒い髪であった。神性の純金の頭に至りたいと思うなら、この黒髪をかきわけなければいけない。神であられるのに、赤子の姿をとって烏(カラス)となられたへりくだりのイエスさまの前に、へりくだりをもってひざまずき、黒髪をかき分けなければ(十字架のイエスを通らなければ)、神を知ることは不可能である。烏(カラス)のような黒髪で覆われているのだから・・・。

 烏(カラス)といえば、ケリテ川のほとりに身を隠したエリヤに、朝と夕にパンと肉を運んだ烏(カラス)が思い浮かぶ(T列王 17:6)。烏(カラス)は、律法では忌むべきものとして、汚れた生き物となっている。「また、鳥(とり)のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、・・・、烏(カラス)の類全部、・・・」(レビ 11:13,15)その汚れた生き物から肉とパンをもらうのは、エリヤにとってへりくだりの信仰を要することであった。エリヤは、神のみこころの前にへりくだったのである。このへりくだりの学びの後、今度はやもめの家の粉と油がエリヤを養った。当時のやもめというのは身分が低かったが、この神の預言者は、王の食卓からではなく、やもめ女の粉と油で養われたのである(T列王 17:16)。この後、エリヤは、えにしだの木の下で天使が運んだパンによって養われた(T列王 19:6)。死を願っていたエリヤは、この天使のパンに力づけられ、四十日四十夜かけて、ホレブ山へ行ったのである。へりくだったエリヤを神が高めてくださったのである。

 雅歌に戻る。「その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、水の流れのほとりにいる鳩のようです。」(雅歌 5:12)目、白目は乳で洗われたように真っ白で、汚れがない。また、その目は活動を終えて、水の流れのほとりに休んでじっとしている鳩のようであるという。「休み」は、口語訳では「落ち着いている」で、指輪の台座にしっくりとはめ込まれた宝石のようによくおさまっている様子を言っている。「池」は十分、充満の意味がある。十分に水をたたえた池のほとりで、休んでいる鳩。その目は、攻撃的ではなく、素直で、柔和な目、その目を見るだけで、落ち着いた平和な思いになる、そのような目である。

 頭、髪、目と下ってきて、次は頬とくちびるである。「その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。」(雅歌 5:13)雅歌1章10節で、頬は「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ 5:39)というイエスさまのことばに見るように、頬は意志に関係すると述べた。意志を表わしている頬、この頬が、良いかおりを放つ香料の花壇のようだと言っている。花婿の愛情にあふれた頬(意志)は、人の心をこの良いかおりに惹きつけて、彼自身を慕い求めて、切望させる香料の花壇のようなものなのである。またくちびるは、へりくだりの没薬の液をしたたらせるやはりへりくだりのゆりの花に例えられている。彼のくちびるは、没薬とゆりという二重のへりくだりによって表わされているように、自己主張などの傲慢さは微塵も見られず、ただ父なる神を証しているくちびるである。

 次は、腕とからだの描写である。「その腕は、タルシシュの宝石をはめ込んだ金の棒。からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。」(雅歌 5:14)「タルシシュの宝石」は、緑柱石である(出エジプト 28:20、39:13など緑柱石と訳されている原語はこの箇所と同じ語「タルシシュ」である)。その原語には、精錬する、裁く、テストする、試みる、調査するという意味がある。腕は、神聖な手、金(神性)の棒(円筒、杖)。まことに、主のみ腕は、私たちを支える杖である。また、このみ腕は、陶器師の腕である。土の器を壊し、練り直され、尊い器へと変えて下さる腕である。ときには、悩みの炉にて試みにあわせ、純化してくださる腕である。緑柱石がはめ込まれているとは、精錬し、試みる腕であるということである。自分の手をダイヤモンドなどの宝石で飾った王は、他にも多くいるが、このような力強い金の棒の腕は他にはない。「からだ」はヘブル原語では「腹、内臓、はらわた、内部の器官、腸」であり、花婿の最も内なる部分を示す。サファイヤは階段(上昇)を表わす。象牙は、攻撃力と守備力を表わす。ある本によると、ヘブル原語の「象牙」には、歯のように鋭い、最前列、繰り返し教え込む、説き伏せる、研ぐという意味もあるそうだ。花婿の最も内側の部分は、刺し通したり、説き伏せたり、教え込んで、引き上げ、徳を高める強さをもった象牙の、破壊的強さではなく、美しい細工でできていたのである。

 次は、足である。「その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌 5:15)花婿の足は、純金の台座に据えられた、強くて堂々とした大理石の柱のようであった。大理石とは、固く頑丈な不動の物資である。純金、神性という土台の上にまっすぐにそびえ立っている柱、上、神に向かってまっすぐに立っている不動な柱である。この足は、神のみこころからそれない歩みをなしているのである。次に花婿の全体の容貌を述べる花嫁。容貌はレバノンのようにきよさ、清潔さを全体にたたえている。また高さ、強さにまさる杉のようにまっすぐに荘厳さを持っていてすばらしい。

 最後に花嫁は、最も親密な花婿の口について述べる。ことばなる主イエスの中核である。「そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌 5:16)「ことば」ヘブル原語の「口、上あご、味、歯ぐき」である。彼の口、ことばは、甘く私たちをうっとりと酔わせ、また、いのちを与えるぶどう酒である。証し終えた花嫁は、「あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」と締めくくった。

 嘲笑と聞いてみたいという思いとが入り混じっていたかのように、「何がすぐれているのですか。」と言っていたエルサレムの娘たちは、この花婿への証を聞いて、心を打たれた。「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。」(雅歌6:1)と捜索の協力を申し出たのである。花嫁の証を通し、花婿の圧倒的な愛を知ったエルサレムの娘たちは、自分たちも花婿を知りたいと思ったのである。人間の夫婦の描写だとしたら、花婿の愛を勝ち取ろうとライバルの炎がメラメラと燃え上がるようなとんでもない話となっていくところであるが、これは、霊においての話である。今やエルサレムの娘たちの内に、花婿を知りたいという飢え渇きが与えられた。居場所を一番知っているのは、花嫁であることにも、エルサレムの娘たちは気づいている。試練が激しく、イエスの愛が見えなくなり、私たちは、ときどき、花婿がいなくなってしまったように感じることがある。しかし、他の人々に証を始めるとすぐに、そう遠くに行っていないことに気がつく。

 「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集めるために。」(雅歌 6:2)「あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。」というエルサレムの娘たちのことばに、花嫁は答える。先ほどは、自分も花婿の居場所がわからずに、捜しまわっていたのだが、花婿を語るうちに、花婿の居場所が見えてきたのである。同時に、自分にへりくだりがなかったことに気づかされた花嫁、「私の愛する方は、自分の庭、(良いかおりに満ちた)香料の花壇へ下って行かれました。主のみこころに不平不満をもって答える私を置いて、私がみこころを悟るように、自分にふさわしい庭に下って行かれたのです。庭の中で群れを飼い、(へりくだりの)ゆりの花を集めるために。」

 「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 6:3)
花嫁は、花婿の居場所をはっきりと確信したのである。同時に、自分にへりくだりがなかったために、花婿と離れ離れになったことも気づいた花嫁。砕かれた花嫁は、婚約期間から成長したことがわかる。婚約中は、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」(雅歌 2:16)と言っていたのである。順序が変わった。まず、私は私の愛する方のもの、が先立つ。これが、自分のためでもあり、こうすることが、私の愛する方は私のものと、主のものを共有することのできる道であることを、自己主張を捨て、へりくだりを学んだのである。以前も、花婿がゆりの花の間で群れを飼っていることは知っていた。しかし、ことば上で知っていたにすぎなかった。花嫁は、この後、二度、花婿の居場所を懸命に捜しているのである。今や体験的に、ゆりの花、へりくだることを学んだ花嫁は、はっきりと知ったのであった。

 花婿が望んだ位置にまできた花嫁に、花婿は優しく語りかける。エルサレムの娘たちの前で・・・。「わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい。」(雅歌 6:4)主は、このように、証を確かなものとするために、力と栄光をもって、現われてくださるお方である。主のみ前でへりくだる花嫁を、主ご自身が高く上げてくださるのである。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(ヤコブ 4:10)とヤコブが言うとおりである。「私自身が知らないうちに、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。」(雅歌 6:12)と後に花嫁は、高くされた。花嫁となったために、兄弟からしいたげられ、行き場を失い、群れのかたわらで、子やぎを飼うように命じられた花嫁。その待遇が気に入らず、不平不満をもって、花婿に接していた花嫁であった。花婿が離れるという二度の経験が彼女をへりくだらせ、自我が砕かれた。夜回りたちに打ち傷つけられても、私は愛に病んでいると伝えてくださいというのが、精一杯の花嫁を、花婿は高く上げてくださったのである。誤解され、一時的にみじめな状態に置かれても、へりくだることを学ぶなら、主ご自身が高くしてくださるのである。へりくだることを学ぶとは、苦難をじっと状況が変わるのをただ待つということではない。花嫁にとってのへりくだりを学ぶということは、殻から出て、プライドを捨てて、花婿を捜しに出たことであった。花嫁やエリヤが特別高慢だったから、へりくだりを学ばなければいけなかったのではない。むしろ、他の人よりも、へりくだっていたといえる。人類に罪が入ったアダム以来、人間の従来もつ性質が、神のへりくだりに反するのであり、神に近づけば近づくほど、その性質を変えられる必要が出てくるのである。神から遠ければ、自己中心的な自我をもっていようが、神も気づくまで、そのまま素通りしてくださるだろうが・・・。次回は、この花婿のことば、6章4節からを見ていく。

落ち穂の会提供

posted by CVSA事務局 at 21:29| Comment(0) | 雅歌

2015年04月07日

リバイバルと宣教

リバイバルと宣教という言葉は、クリスチャンが惑わされやすくなる言葉である。
「多くの者が救われて神の国がやってくる」という願望を持っているからである。
願望自体は悪くはないのだが、問題は、その願望を自己実現のために利用しようとすることである。

マズローの欲求5段階説によると、「自己実現欲」は、人間の欲求で最も強いものである。
上手な詐欺師は、欲望につけこみ、相手の不安を利用し、権威を持ち出し、稀少性を演出してくる。
「God God 詐欺」において、もっともやっかいなことは、だます本人も間違ったことを信じ込んでいて、だましているという自覚がなく、「神」という最高位の権威をまとっていることである。

リバイバル・世界宣教ということを主張し、献金や集客目的に活動している人々についての被害報告が届いている。「世界宣教リバイバル」や「リバイバルや宣教のための祈りの訓練」「黙想」を名乗った集会も開かれている。

そういった人々は、外面的なパフォーマンスを好んでいるため、「神が言われた」「権威ある医者である」「権威あるドクター(博士)である」「一日に何時間も長く祈っている」「どこででも(電車の中ででも)祈っている」…という主張が目立っている。

そういう人物の言葉は、主語がキリストである神ではなく、自分になっていることが多い。
(「神が言われた」と一見主語が神になってはいても、「神が(自分に)言われた。…」と自分が主体となって輝く内容を語っている)

リバイバルがもうすぐ来る、イスラム宣教、未開地伝道…等を強調し、神という上からの言葉でやってくる教えは注意を要する。(キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたお方である。(ピリピ 2:7,8)

今までの惑わしは、稀少性を打ちだし、信者を獲得するために、その組織独特の言葉を使うことが多かったが、最近は、一般的なキリスト教が使い、信頼を得ているような言葉も前面に出してきている。
そのため、信頼を得ているような教派や教会が利用されているケースも起こっている。
「キリスト」の名をつけずに、他の権威を付け(たとえば世界有数のドクター等)、外国の非営利団体を名乗って、全国展開をもくろんでいる団体についての被害も多数届いている。

God God 詐欺被害を防ぐには、正確な情報の伝達と連携が欠かせない。
posted by CVSA事務局 at 11:22| Comment(0) | 警戒情報