2015年03月16日

『キリストの花嫁 3』雅歌 2:8-3:5

 前記事では、無気力になった花嫁が、花婿に、干しぶどうの菓子による力づけとりんごによる元気づけを懇願し、エルサレムの娘たちに、干渉しないことを誓わせたところまでを見た。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。上に愛という花婿の旗じるしを翻し、子やぎを飼う花嫁が、愛に病んで、時が経っていったようである。
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『狐や小狐の退治−自我の解放―』雅歌 2:8-3:5(新改訳聖書使用)

愛のすれ違い
 花嫁の懇願に、花婿は、左の腕を枕にし、右の手で抱きしめようと、駆けつける。「愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。」(雅歌 2:8)みことばなるキリストは、みことばを携え、さっそうとすみやかに来られる。花嫁を助けようと・・・。

 「私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。」(雅歌 2:9)駆けつける姿は、さっそうと雄々しく、まさしくかもしかや若い鹿(ヘブル原語では「の子鹿」)のようである。さっそうと駆けつけた花婿は、花嫁のもとに行ったのだが、近寄ることができなかった。壁があったのだ。私たちの壁と花嫁は言っているが、この壁は共同で作ったものではなく、花婿が作って行ったものでもなく、もとからあった土台に花嫁が自分で作り上げたものであった。しかも、これは、窓を開けて入れるようなものではなく、窓にはしっかりと格子がはめ込まれているような頑固なものであった。花嫁は心に頑固な壁を持ち、花婿を遮断していた。しかし、覗いてもらえるような窓はしっかりと作っているのである。いつの間に、このような壁が・・・、花婿は、壁の後ろにじっと立って、窓から格子越しに中を伺った。「私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)と言って、花婿のかたわらの緑の牧場を理解した花嫁であっても、彼女の意志でできた自我の壁が花婿との間をはばんでいた。壁を作ってしまった花嫁に、花婿は語りかける。壁を壊すことは、花嫁でなければできないのである。壁を壊せるのは、花嫁が自分の思いやプライドを捨てる決意をし、どんな危機の困難の中であっても、花婿を信頼し、心の奥底の主導権を花婿にゆだね渡すことによる。

 「私の愛する方は、私に語りかけて言われます。『わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。』」(雅歌 2:10)「さあ、そこで、防御の殻を作ってないで、殻から出ておいで。」と。「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。」(雅歌 2:11)「冷たく厳しい冬は過ぎたよ、あなたを容赦なく打った大雨も過ぎて行ったよ」と。「地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。」(雅歌 2:12)十字架にかかる体験、裸(自我が露わ)にされる聖別の体験はもはや終わり、暖かい春がやってきた。地は花が咲き乱れ、美しくよいにおいで満ちている。鳥のさえずる歌声もまるで喜びの賛美のようだ。鳩は平和の象徴。中でも山鳩の特徴は、生涯に一度だけ結婚し、その配偶者に忠誠を尽くす一夫一妻制であるため、愛の象徴としてよく用いられている。平和な愛の風景である。花婿の語りかけは続く。「いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。」(雅歌 2:13)春、花のない無花果(実は、花がないわけではなく、実の中にたくさんの花を蔵している)は、青い実をつける。ぶどうの木は、花をつけ、よいかおりを放つ。来るべき大収穫のための花である。「愛する美しい人よ、恐れないで、立ち上がって出ておいで。大収穫が来るよ。」と花婿は呼びかける。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「出ておいで。」と呼びかけたが、花嫁の応答はなかったようである。

 さらに、花婿は呼びかける。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(雅歌 2:14)「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩」花嫁の目を鳩のようだと言った(雅歌 1:15)花婿は、ここでも花嫁を素直で温順な鳩に例えている。しかも岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩である。
 以前、集合住宅の9階に住んでいた時のある台風の夜、一羽の鳩が、我が家のベランダに非難してきた。暗い中、鳥目で見えないためか、暴風雨の中、飛び立ったら危険な状態を知っている鳩は、ひとつ場所にじっとしていた。鳩がベランダに住みつくと子作りをしてうるさく、糞害も大変であると聞いていたし、実際に卵を産まれたこともあるため、空き部屋であった隣にでも行ってとばかりに、そばにあったハンガーでつんつんしてみた。つんつんされた鳩は怖かったであろうに、じっとしていた。ハンガーがふれても知らん顔を決め込むように、こちらを見もせず、無視してじっとしていた。人間につんつんされて、怖くないわけではなかったろうに・・・。その姿を見て、いのちがけであることを知り、そのままにしておいた。少しして、少し小柄な鳩も来て、寄せ合うように一夜を過ごし、早朝に飛び立って行ったのか、起きてみると鳩の姿はなかった。ここなら安心とわかっているのか、突付く者があっても目に入れず、嵐が過ぎ去るまで、じっと嵐を見据え、微動だにしなかった鳩、恐れて飛び立ったなら、容赦ない嵐に倒れたかもしれない。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる鳩」とは、まさしくそのような状況である。嵐の中も、必ず嵐は過ぎ去るという信仰をもって、突付く者があっても、主の守りを信じ、見向きもせず、主の守りの中で耐えている花嫁。そのような花嫁に向かって、「危険なところにいたために、頑固な壁を作っているが、私はあなたが鳩のように素直であることを知っているよ。嵐は過ぎ去った。さあ、私に、顔を見せておくれ。」と花嫁は言う。花婿が花嫁の声を聞くことを望んでいるように、主も私たちの祈りの声を望んでおられる。「あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」と言った花婿のように、私たちが祈る姿は、主の御前にとても愛らしく、美しく見えている。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。「声を聞かせておくれ。」と言われても、すぐに喜んで応答できないほどに病んでいる花嫁。

 「『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」(雅歌 2:15)「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。」は、今まで花嫁が花婿に言っていたことばなのである。「そのままにしておいたのは、無視していたわけではない。しっかり聞いていたのだ」ということを伝える花婿。イエスさまはヘロデ・アンテパスを「あの狐」(ルカ 13:32)と言ったように、狐は、キタキツネなどを連想すると、かわいいところもあるが、決してよい動物とは言えない。イソップ物語など、童話に登場する狐は、その性質をよく語っている。狐は、単独で行動し、昼間は、他の動物から奪った穴で休み、夜、行動するという。また荒れ果てた廃墟を好む。雑食性で、ねずみ、うさぎ、きじ、かえるなどの小動物や、果実、特にぶどうを好んで食べる。性質は陰険でずる賢い。花嫁は、このような狐に、悩まされ、翻弄され、またせっかくなった少しのぶどうの実を荒らされた経験もあって、花婿に訴えていたことがあったのである。「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。」花嫁の切なる訴えであった。花嫁は「花婿のためでもあるのだから、このいらだたせる狐を退治してくれてもよいではないか。」と言っていたのである。しかし、狐や小狐をとらえることは、花嫁にできる仕事なのである。花婿は、花嫁が成長するのをそっと見守り、待っていたのである。花嫁の目には、放置されているように見えたのだが…。狼や獅子を捕らえるのとは違うのである。しっしっと追い払えばよいのである。畑に入れなければよいのである。入ることを許さなければよいのである。その力を花嫁はすでに花婿によって与えられているのである。今、大収穫を予見するように、ぶどう畑は花盛りなのである。10節からのかぎ括弧は、壁の窓の格子越しの花婿のことばである。これまでの花婿と花嫁の応答には、かぎ括弧などついてはいなかった。直情的に応答していたのである。花嫁は、これをかぎ括弧をつけ、第三者的に、遠いことのように耳にしているのである。人間は、自分のしてほしい絶対的なことに固執していると、どのように麗しいことばであっても、他のことに耳を貸すことをしないものである。例えば、この花嫁は、花婿が、さっそうとかけつけ、いじめっ子から助けてくれることを望んでいたのであるが、花婿は、愛のことばを言い残して、立ち去っていった。主も、私たちが何かに固執している限り、これがみこころだといって、無理やり引きずり出したり、怒鳴っておどして連れ出すようなことはなさらない。花婿は、花嫁に、おしんのように我力でただひたすら耐えることを望んでおられるわけではなく(それもすばらしいかもしれないが、花婿と歩むためには妨げとなる)、花嫁自身の足で、立ち上がってついてくることを望んでおられるのである。

 立ち去った花婿を思い、花嫁は言う。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(雅歌 2:16)まだ、自我が捨てきれない花嫁。まず、「私の愛する方は私のもの。自分のもの。」と言っている。次に「私はあの方のもの。」ときている。こう言っていた花嫁が、後には、「私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。」(雅歌 6:3)と砕かれていくのである。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。」(雅歌 2:16,17)ゆりの花、下にうつむくようにして咲くゆりの花は、へりくだりの象徴である。自我に固執する花嫁をおいて、花婿は、へりくだりの中で、群れを飼っている。立ち去った花婿を思い、花嫁は帰ってきてくれるように言っている。が、このことばの中には、自我がつまっている。「私の愛する方よ」と呼びかけてはいるが、次のことばは、「これこれこういう時までに、あなたは帰ってきて、こうこうこのようになるように。」と言っているのである。懇願ではなく、少し高い位置から、ことばはやわらかいが命令しているのである。「花婿なら当然よ」と言わんばかりである。これこれこういう時までにとは、どういう時までかと言うと、「そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、」原文では、「そよ風が吹き始め」夜のこと、「影が消え去るころ」も夜である。暗闇の時までに、ということである。「まあ、今はなんとか大丈夫だし、このままそっとしておいてほしいけど、もっと大変な暗闇の時になったら、あなたはすみやかに帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってくださいよ。」こういったところだろうか。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。時が経った。

砕かれる自我
 強がったものの、時が経つとともに、花嫁はだんだん、不安になっていった。すぐに、花婿を探し回ることになる。「私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:1)最初、花嫁のしたことは、捜しながらも、床につくことだった。「床について何もせず、休んでいよう。家宝は寝て待てと言うではないか。楽にして待っていれば、そのうち、時が来て、主(花婿)の方から、来てくださるに違いない。ハレルヤ。主よ、早く来てください。私は待っています。」信仰のように見えても、実は自我の中のあきらめである。寝て待つことは、ことわざであっても、聖書の真理ではない。聖書は、「求め続けよ、たたき続けよ、探し続けよ。」(マタイ 7:7参照)とある。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」と何もしていないのだから、達成感もなく、むなしさが残る結果となる。

 達成感がないことから、花嫁が次にしたことは、人ごみ、にぎやかな通りを捜し回ることであった。「『さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。』私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」(雅歌 3:2)にぎやかに働いている街中、奉仕に忙しい場所、奉仕の大通りの中、わいわいと華やいで活気づいているところで、捜し始めたのであった。括弧の中は、「私は・・・捜して来よう。」と私が主語の労働である。奉仕は、大切な事柄であるが、主の助けと祝福によってなさせてくださる恵みである。主を捜すためとか、誉れとか、自分のためにという動機でなしたところで、恵みを見出せるものではない。「私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。」徒労に終わってしまう結果となる。主についての働きの大切さは、主とともに、主の後から、ということである。

 次に花嫁がしたことは、出会った夜回りに聞くことであった。「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。『私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。』」(雅歌 3:3)「町を行き巡る夜回りたち」群れの監督者であり、見張る者といえば、宗教的な指導者、牧師、教師たちのことである。彼らは、「どうしたの?」と花嫁を見つけて尋ねたことだろう。花嫁は、わらにもすがりたい気持ちで尋ねる。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。どこに行けば会えるのでしょうか。」と。しかし、彼らも彼女のための答えは持ってはいず、首をかしげただけであった。いよいよ、花婿に会いたい一心で、花嫁は捜し続ける。主はこのように限界になるまで、信仰をためされる。信仰を引き出し、高めるために。

 「彼らのところを通り過ぎると間もなく(ヘブル原語は「すぐに」)、私の愛している人を私は見つけました。」(雅歌 3:4)床での休息、奉仕の大通り、夜回りでは見つからないことを学んだ花嫁が、捜す場所ももはやわからず、目をやると、偶然にもというか、花婿にしてみれば、この時をずっと待っていて、見守っていたからであるのだが、すぐに花婿を見つけることができたのであった。花嫁は、私は見つけましたと、言っているが、花婿は、花嫁のいる位置をいつも知っていて、待っていたのである。この瞬間を・・・。自我を手放す瞬間を・・・。「この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。」(雅歌 3:4)花嫁は、もはや、壁を作り、「放っておいてちょうだい。私は愛に病んでいるのだから。」という態度で接したりはしなかった。花婿への愛がほとばしり、目覚めたのである。自我のプライドを捨て、壁を自ら崩したのであった。自分のほうから、しっかりとつかまえて放さず、ことばだけではなく、態度をもっても、花婿の愛に応えたのであった。「私の母」聖霊さまは、私たちにみことばの光を照らし、私たちの霊の中にみことばを宿らせ、命を与えてくださる母なるお方である。聖霊さまの奥の間は、祈りの部屋である。花嫁は、祈りの部屋の戸を開け、花婿を連れて行った。祈り(花婿との語らい)の大切さをも悟ったのである。ぶどうの実を食べる狐、それは、人ではなく、自分の思い、そこから出た行動である。きっかけは、人から来たかもしれないが、狐に心を許し、疑いや不信仰の小狐を産むのは、自分自身である。狐を追い払い、不動の信仰に立つなら、神の国は広がっていく。花嫁は、花婿の呼びかけ、みこころを無視して、自分の意志・やり方で、花婿を捜したことによって、しばらくの間、花婿と離れ離れになるという犠牲を払った。しかし、この経験によって、自我をつつき、自我にしがみつかせようとするずるがしこい狐を追い払い、小狐を産ませないすべを学んだのである。

 狐を追い払おうとする時に、やはり、他人の干渉を相手にしている余裕はない。花嫁は、エルサレムの娘たちに、再度、念を押す。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 3:5)狐は、ずるがしこく、自我を突付いてくるかもしれないが、私たちがなさなくてはならないことは、心に侵入し、聖霊の実すらも食べ尽くし、収穫の実をも成らせないようにする狐、小狐から、自分の畑を守ることである。

落ち穂の会提供
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2015年03月09日

『キリストの花嫁 2』雅歌 1:12-2:7

 前記事では、雅歌1章11節までより、王なる花婿イエスさまの大きな愛とキリストの花嫁となる女性の初々しい愛を見てきた。王に、引き寄せられ、その深い愛を知り、奥の間から出てきた花嫁。孤独を訴える花嫁に、花婿は、銀をちりばめた金の特性の飾り輪を作ること、つまり、購いと神性、イエスの似姿で花嫁を飾ってくださることを約束した。
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『かもしかや野の雌鹿をさして−干渉の禁止―』雅歌 1:12-2:7(新改訳聖書使用)

羊飼いの愛
 王なる花婿に励ましの言葉を受けて、花嫁は言う。「王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。」(雅歌 1:12)と。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録 3:20)と言われる王が、私たちとともに、うたげの座、つまり食事の席についてくださっている間は、花嫁は、平安に満たされて、その平安、平和のかおりが周囲にも満ち溢れるのである。ナルドは、おみなえし科の宿根草で、平安の象徴である。「あなたの産み出すものは、最上の実をみのらすざくろの園、ヘンナ樹にナルド、ナルド、サフラン、菖蒲、肉桂に、乳香の取れるすべての木、没薬、アロエに、・・・」(雅歌 4:13,14)と花嫁から産み出されるかおりのある実について書かれている箇所がある。この後は、「香料の最上のものすべて、庭の泉、湧き水の井戸、レバノンからの流れ。」(雅歌 4:14,15)と続いているのだが、かおりのある実は、ちょうど9つ(ざくろからアロエまで)である。私たちから産み出されるかおりのある実とは、何であろうか?  「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」(ガラテヤ 5:22,23)(雅歌 4:14,15)ちょうど9つある。対比してみると、ナルドは、平安となる。ベタニヤのマリヤは、十字架を目前にした主イエスに(マルコ 14:3では頭から、ヨハネ 12:3では足に)ナルドの香油をぬった。この香油は、大変香りが強く、家が香油の香りでいっぱいになった、とある (ヨハネ 12:3)。強い香りゆえに、ピラトの法廷に、ヴィア・ドロロサに、ゴルゴダの丘にと、埋葬されるまで、香り続けたことだろう。平安、平和をもたらした主の十字架の香りである。

 次に、花嫁は、花婿を、2つのものに例える。「乳房の間に宿る没薬の袋」と「エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさ」である。「私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。」(雅歌 1:13,14)没薬とは、ミルラという植物の樹脂であり、古くから、通経薬(月経を通じさせる薬)、胃薬、うがい薬、ミイラ作りの薬として用いられてきた。没薬は、柔和、へりくだりを象徴する。当時の女性は、自分の体によい香りを漂わせる香水の代わりとして、におい袋を胸元につけた。花嫁にとって、よい香りを放つ柔和、へりくだりのかおりの源は、愛する花婿である。乳房の間=心の中心に宿るへりくだりは、イエスさまによる。また、エン・ゲディとは、「子やぎの泉」という意味である。そこは、死海の西岸中心にあるオアシスの地で、石灰岩の裂け目から泉が湧き出るとともに、死海水面200メートルの高さからも滝が落ちて、美しく深い泉をつくっているそうである。ヘンナ樹は、高さ2〜5メートルの潅木で、多数の花をつけ、香りも高い。化粧やしみを隠すためや香水などにも使われ、また、皮をなめすときや、堅くしたりするときにも使われた。ヘンナ樹は、喜びを象徴する。しみやしわを主におおってもらうことは、喜びである。また、「主を喜ぶことは、あなたがたの力である。」(ネヘミヤ 8:10,欄外)というが、皮をなめす時に、堅く強くするヘンナ樹は、まさに喜びの象徴である。美しいきれいな泉のそばの多くのおいしそうな実をつけているぶどう畑、その中にあるよい香りを放ち、喜びの種を多くならせるヘンナ樹の花房に、花婿を例えているのである。まことに、主イエスは、へりくだりのかおりの源であり、おいしい実とともに、よい香りと多くの喜びを与えてくださるお方である。この後、ヘブル原語の「ヌン」という段落記号・段落を表わす文字が入っている。段落が変わる。

 花婿は告げる。「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」(雅歌 1:15)2度繰り返されている「なんと美しいことよ。」ということばから、花嫁としての孤独の苦しみから目を上げ、花婿が与えるへりくだりと、喜びを理解した花嫁への思い、感嘆ぶりが伝わってくるようだ。鳩の目は、素直で優しい。その目を花嫁に当てはめている花婿。この柔軟に主の思いを受け取る花嫁を花婿は、このように、感嘆して喜んでくださるのである。

 花嫁は返す。「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。私たちの長いいすは青々としています。」(雅歌 1:16)まことに、雅歌は、比喩が多く、主を知ることなしには、理解できない、奥深く主の愛情にあふれた書簡であるとつくづく思う。「私を美しいなどとおっしゃいましたけど、美しく慕わしいのはあなたです。」と花嫁は言っているのである。「長いいす」は、休息の場を表わす。「青々としています。」は、ヘブル原語の「ra`anan(新鮮な)」である。想像していた特上のゴージャスな牧場ではないけれど、花嫁の霊の目は開かれた。こここそが、最上の求めていた安息の牧場であったと。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇 23:1,2)乏しいことがなく、安息の新鮮な牧場にいたことに、花嫁は気づいたのであった。こうして見ていくと、私たちは、王であり、羊飼いである花婿が、雅歌1章に表わされていることを知ることができる。

 「私たちの家の梁は杉の木、そのたるきは糸杉です。」(雅歌 1:17)花嫁は、ここで、花婿と花嫁の家についてふれている。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Tコリント 3:16)とパウロは言っていることをふまえ、この霊的な家について見ていく。花嫁の内には、内なる家、霊的な家が成長してきたのである。家の梁、梁は建物の内部に見られるように、内部の構造であり、壁の中や天井で支えとして使われるものである。この支えは、杉の木(レバノン杉)でできていた。杉の木とは何を意味しているのか? 民数記19章にその答えを見出せる。罪のためのきよめについての神の定めが書かれているが、汚れをきよめる水を作るために保存される灰を作るときに、ヒソプや緋色の糸とともに使われるのが、杉の木であった。霊の家は、きよめという支え、基礎の上に成り立つものであることを忘れてはならない。次に、たるきであるが、たるきは屋根を形づくるものである。糸杉は、果樹園の防風樹の生垣に用いられている木である。樹脂を含むこの木は、腐敗しにくい。聖ピエトロ大聖堂の扉は、この糸杉で作られているそうである。このような腐敗しにくく風よけに適している木で守られた家は、さぞかし安全で強いことだろう。

 比喩ばかりで、ため息が出てきそうだが、なぜ、このように、困難なたとえで、雅歌はつづられているのか。主の愛の宝庫である雅歌、イエスさま自身のことばで言うなら、「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ 13:13)である。「すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。『なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ 13:10-15)イエスさまの愛に自らの欲で近づかないためにである。

愛のことばの交し合い
 花嫁は続ける。「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花。」(雅歌 2:1)シャロンは、地中海沿岸のヨッパの町から北にカルメル山まで続いている平原のことである。エルサレムからは遠く離れている。「サフラン」は口語訳や新共同訳、New King James Version Bible(英国欽定訳)は、「ばら」と訳され、文語訳は、「野花」と訳されている。赤い小さな花で、シャロン平原ならどこにでも見られるようなありふれた花である。「谷のゆりの花」も日本人は、大きなやまゆりやおにゆりを想像しやすいが、イスラエルの野にあるアネモネのような可憐な花であると思われる。ここで、花嫁は、花婿に美しいと言われても、エルサレムの洗練された娘たちに比べると、自分は、洗練されていない一輪の野花であり、谷の中にうもれるようにひっそりと咲く野花であると、けんそんに言っているのである。

 このような花嫁のことばを受けて、花婿は言う。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(雅歌 2:2)私の愛する花嫁が、エルサレムの他の娘たちの間にいることは、とげだらけのいばらの中のゆりの花のように、美しいと告げる。ゆりは、いばらのとげが当たって痛いかもしれないが、いばらの中にあって、ゆりの美しさは、花婿の目には、いっそうきわだっているのである。

 今度は、花嫁が返す。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。」(雅歌 2:3)聖書には、しばしば、人を木に例えて描いている。イエスさまがおいやしになった盲人は、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」(マルコ 8:24)と言った。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ 15:5)イエスさまはご自身をぶどうの木に例えた。同じ実のなる木でも花嫁は、「林の木の中のりんごの木」と言っている。他の若者たちと比較すると、実のならない他の木の中で、花婿は一際目立ち、赤く際立つ実をたわわにつけるりんごの木のようだと言っているのである。ぶどうは多くの木の中にあると、目立たない色の果実であるから、ここではりんごの木となっているのではないかと思う。花嫁は、そのりんごの木陰で、つまり覆われ、守られて、休むことを切に望んだ。実のないスカの木の木陰で休んだとしたら、お腹がすいても満たしてもくれず、のどが渇いても潤してももらえず、見栄えばかり立派で、飢え乾いてしまうが、多くの実をつけたりんごの木陰は、その実がのどもお腹も満たしてくれることだろう。実がなく、葉っぱばかりをつけていたいちじくの木をイエスさまがのろわれたことを思い出す。主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。」(詩篇 19:7-10)とあるが、主が、私たちに与えてくださる食物は、蜜よりも、蜂蜜の巣のしたたりよりも甘いのである。

 「あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。」(雅歌 2:4)直訳すると「ぶどう酒(宴)の家に連れて行った。」である。そうして、花嫁は、喜びの宴の席に伴われて行ったのである。主がくださった食物は、私たちをどんな境遇にあっても喜びで満たしてくださるのである。「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。」(Uコリント 7:4)とパウロが言えたのは、主によって酒宴の席に伴われたからであった。旗は、勝利を意味する。花嫁の頭上にはためいている主の勝利のしるしは、愛であった。愛が、勝利の要なのである。主の愛にとどまり続け、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、主を愛すること、相互の愛である。

 愛が要であることは、花嫁も知っているのだが、先週見てきたように、兄弟たちのしいたげによって、無気力になっている花嫁は、愛する力も出てこない。そこで、花嫁は言う。ここまでの花婿の語りかけで、花嫁は、次のように言う力を得たのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)こんなに愛のことばをもらって、やっと、花嫁は、「力を得たい、元気づきたい、私は愛に病んでいる。」と言えたのであった。「干しぶどうの菓子」は、「干しぶどう」とは異なる、ケーキ状に圧縮したぶどう菓子のことである。ぶどうの実そのままよりも、圧縮しているので、多くの実を口にすることができる。シナイ修道院では、今日でも旅人を元気づけるために、この種のケーキを出しているそうだ。そのぶどうの実の食物、ぶどうの木からとれる食物、主イエスから直接いただく食物は、私たちを最も力づける食物である。「りんご」も先ほど見たように、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」(詩篇 19:7-10)といったような食物である。花嫁は、無気力で、愛する力が出てこないことを「私は愛に病んでいるのです。」と表現している。「病む」は、ヘブル原語では「病気になる、病気である、悲しい、弱くなる、懇願する、自分で病気にかかる、病気にされた、疲れた、弱くされた、傷つけられる」などの意味である。

 より強い愛を求め、愛に病む花嫁は懇願する。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」(雅歌 2:6)同じことばが、8章3節でも言われている。左側の腕の付け根には心臓がある。母親が左側の腕に赤ん坊の頭がくるように抱くと、心音によって、赤ん坊は安息できる。そうすることによって、赤ん坊は、母に守られているという愛を感じるのである。左の腕は、平安、安息の象徴である。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(出エジプト 15:6)「あなたの右の手は義に満ちています。」(詩篇 48:10)「私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。」(詩篇 138:7)他にも多くあるが、右の手は、力、救いとして表わされている。主の左の腕を枕に安息し、主の力強い右腕に抱かれ守られることは、なんと心地よいことか。

 「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」(雅歌 2:7)雅歌に3回繰り返され、念をおされていることばである。花嫁は、今度は、エルサレムの娘たちに、お願いする。「かもしかや野の雌鹿をさして、誓いを立てることを。」かもしかや野の雌鹿は、「純粋さ」を表わし、誓いの純粋さの意味であろうとある註解書には書かれている。私は、後の9節で花婿のことをかもしかや若い鹿に例えていることから、ここは、主なる花婿の象徴であると思える。誓いのゆるぎなさを表わしている。「山々をとび越え、丘々の上をはねて」(雅歌 2:8)花嫁のもとに馳せてくる花婿の性質。かもしかが駆けてくるさまは、軽やかにすばやい。主イエスの再臨をも思わせる描写、かもしかは、主イエスの象徴である。野の雌鹿は、鋭い認識力を備えている。雌なので、母として例えられるご聖霊の性質のようである。ご聖霊は、私たちの心の畑の見張りをもしてくださる敏感なお方である。花嫁は、ここで、主イエスと、エルサレムの娘たちの内にも住まわれているご聖霊にかけて誓わせているのである。誓いとは、神聖なもの、何にでも誓えばよいというものではない。「軽々しく誓ってはならない。」とあるように(マタイ 5:34-36)。しょうもないものに誓っても、仕方がない。誓いにならない。完全である神にではないと、その誓いはあてにならないものになる。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」と。花嫁は、花婿とのさらなる愛の関係を望んではいるのだが、それは、娘たちに揺すられたり、かき立てられたりして、無理やりに目覚めたいと思ってはいない。花婿との愛の関係は、花婿自身によって、なされるべきだからである。他人が干渉することではない。他人ができることは、見守り、応援することだけである。花婿だけが、花嫁の愛を目覚めさせることができるのである。

 主イエスの愛がわからなくなるほど、無気力になったときは、花嫁がしているように、懇願すればよいのである。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。」(雅歌 2:5)と。そして、主の左の腕に枕し、右の腕でしっかりと抱いてもらうのである。ただし、その間、決して、エルサレムの娘たちによる干渉を受けないように・・・、と聖書は言う。

落ち穂の会提供

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2015年03月03日

『何が、教会の、カルト化の原因?』セミナー報告

2月28日、立川市の99+TACHIKAWAで、「『何が、教会の、カルト化の原因?』…対策と私たちの立ち位置…」というテーマで、宗教トラブルセンターの村上密牧師を招いて、セミナーを行ないました。
村上師のもとには、数え切れない相談が寄せられていて、その経験から、大切な教えを語って下さいました。
後半は、質疑応答の時間が持たれ、充実した時となりました。

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 カルト化の原因は、戦後に教会が社会派と福音派に別れ、福音派やペンテコステ派が宣教に偏った力を注ぎ、教会成長や弟子訓練、霊的戦い等に代表される神学なき実践に取り組んだことにある。
 教会成長の教えの中には『信念の魔術』(※1)に影響された具体的にイメージして祈ればそれが実現するかのような、信仰とは異質なことが強調された。また、霊の戦いでは、不適切な追い出しが世界中の多くの教会で行われている。不必要なまでに悪霊に目をとめさせるような教えがまかり通り、信徒に不安や恐れを与え、情緒不安定になる人、心病む人を多数起こしている。
 聖書には書かれていない弟子訓練の中で精神的虐待、性的虐待、身体的虐待等が起きているケースがある。神に従うようにと教えながら、実は牧師に従順な信徒養成に堕しているのである。その結果、教会の教勢拡大のために、献身者の低賃金、信徒の奉仕と言う名の無給の過重な労働を取り入れるところが出てきた。また、労働力と経済のために、熱心な奉仕と十分の一やそれ以上の捧げ物が神の祝福を得る道と強調されてきだした。そして、捧げられた献金を我がもののように思い、富の誘惑に負ける牧師も起きてきた。このようなことを被害者が同地域の牧師に相談したとしても、牧師会などで取り上げられることはまず見られない。
 超教派活動で運営のポストを決める場となっているような牧師の会の中では、利害関係が優先されるかのように、牧師の問題を正すような取り組みはしていない。フェローシップを優先する、そこにあるのは「臆病な妥協」である。それは、牧師だけに限らない。信徒も教会で問題が生じてもそれを正そうと声を上げようとはしない。カルト化した教会では、物言わぬ羊となる。
 このような教会のカルト化を何とか食い止めて、教会の健全化を目指して行かなければ、キリスト教の明るい未来はない。その為に、もう一度、宣教に重点を置き過ぎ、牧会を疎かにし、社会的責任を果さないでいた戦後の教会形成を見直していかなければならない。教会が社会と関わることで、教会活動中心の信仰生活から社会の中で生きる信仰生活を促していく必要がある。また、教会が善で他が悪といった二元論に陥ることなく、地域社会との良好な関係を維持し、地域に根差した教会形成をしていくことが勧められる。
 戦後の教会形成を反省し、神学と実践のバランスを考慮し、聖書を正しく教え、真理に基づく信仰と生活を地道に取り組むことが必要とされている。
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「臆病な妥協」は、和を大事にする日本人は特に陥りやすく、良いことにすり替えられがちである。
身を正し、神の目にどうかを自分で考え、人の顔色を伺うのではなく、神の前に敬虔に生きるキリスト者を目指していきたいものである。
(※1)「信念の魔術」は、自己啓発のバイブルと呼ばれている本である。「心の底から思えば必ず叶う」というその教えは、教会成長のみならず、ニューエイジ系の他の宗教にも取り入れられている。聖書の教えではない。

この自己啓発の教えを取り入れたことは、カルト化の大きな原因を作ったことだろう。
なぜなら、「自己啓発」は、キリスト教に入れてしまうと、神のようになろうと、自分を神とし、自己崇拝して行く道に通じる。それは、神の望まれる道ではない。
自分から始まり、自分によって成り、自分に至る。すべて自分しかない。
自信を取り戻すためには有益であるだろうが、キリスト教に取り入れたとすると、とんでもない方向に進んでいく。
posted by CVSA事務局 at 20:26| Comment(0) | セミナー・集まり