2018年04月09日

献金の真実「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書21章より〜

『献金の真実−金持ちと貧しいやもめの献金−』ルカの福音書21章1〜38節(新改訳聖書使用)

献金の心

 前章では、主イエスは、律法学者たちについて気を付けるよう弟子たちに教えられていた。主イエスが目を上げて見ると、「金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。」(ルカ 21:1)現代の日本で言うなら、賽銭箱に賽銭を投げ入れるような感じである。賽銭箱に金持ちたちがお札を投げ入れる行為は、人々の目を引き、時にニュースになることもあるが、多く捧げる人は、当時も人々の興味を引いていたことだろう。金持ちたちが献金を投げ入れる中、ある貧しいやもめがレプタ銅貨2つを投げ入れているのが、主イエスの目に留まった。
 レプタ銅貨というのは、1デナリ(当時の1日分の賃金に相当)の128分の1で、現在の1日分をざっくり1万円として換算するならば、1レプタは約78円となる。レプタ銅貨2つは160円に満たない額である。聖書では、神への捧げものの目安として、十分の一が示されているが、
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創世記 14:20で、アブラムはすべての物の十分の一を、いと高き神の祭司メルキゼデクに与えている。
創世記 28:22で、ヤコブは神に「すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」と請願を立てている。
・律法での捧げものの規定で、十分の一という割合が示されている(レビ 5:11, 6:20, 14:21, 27:30, 27:32民数記 5:15他12ヶ所申命記 12:6他6ヶ所レビ 27:30では「それは主の聖なるものである。」と書かれている)。
・続く旧約聖書では、至る所で十分の一の概念が出現し、マラキ 3:8に続いている。
・新約聖書でも主イエスは、十分の一を土台として語られている(マタイ 23:23、ルカ 11:42, 18:12)。
ヘブル 7章でもこの概念は引用されている。
十は神の十全を象徴する数値である。
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それをそのまま掟としてとらえると、神の愛が見えなくなる。献金を税金のような規則としてとらえると、神は取り立てる方のようにしか見えなくなるだろう。まだ累進課税を取り入れている税金のほうが公平に見えてきてしまうことになり、ミナのたとえの1ミナを預けられた者のように、「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方」(ルカ 19:21)と歪んだ神に見えてしまうことになりかねない。
 十分の一は目安であると言ったが、金持ちの十分の一と困窮者の十分の一は、額も重みも違う。金持ちが十分の一としていくら大金を捧げても、ありあまるほどの十分の九が残る。痛くもかゆくもない。ただし、目安がなければ、捧げる行為は軽んじられていくことになる。どうでもよい額(量)ではなく、さりとて困窮することのない額(量)が十分の一なのである。ただし、捧げものは、額(量)ではなく捧げる心が大切である。捧げる対象は人や教会ではなく、神に捧げるものである。また、喜んで捧げることができない時は、捧げることができなくても、神はその心をご覧くださる。献金は、人との関係ではなく神との関係だ。主イエスはパリサイ人たちが律法通りにすべての十分の一を捧げているのを知っておられたが(マタイ 23:23、ルカ 11:42,18:12)、行いを自負する心を秘めながら、みもとに聞きに来る人たちには、持ち物全部を売り払い、貧しい人に施すように言われている(ルカ 18:22、マタイ 19:21)
 主イエスは、やもめがレプタ銅貨2つを献金箱に入れるのを見て、「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ 21:3-4)「真実を告げる」と重要な教えであると前置きされている。貧しいやもめが捧げた160円(レプタ銅貨2つ)は、惜しんだ末に、少ない額を捧げたものではなく、手持ちの全生活費であった。今日食べるものがない、明日もどうなるかわからない、その中で、神のもとに来て信仰によって捧げた生活費全部であった。
 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編 51:16-17)
 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(Uコリント 9:7-8)


終わりの時

 額(量)ではなく心だとは言っても、人間は豪華できらびやかな物や裕福さに目を留めがちである。「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。」(ルカ 21:5)その会話を聞いた主イエスは、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」(ルカ 21:6)と言われた。
 ユダヤ人とローマ帝国の戦い(ユダヤ戦争)で、起源70年にエルサレム神殿は崩壊した。しかし、この時の崩壊では、神殿の壁の一部(嘆きの壁)の石は積まれたまま残っている。27節には、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」と主イエスの来臨が語られているが、これは、世の終わりに起こることである。恐ろしいことが書かれているが、それはどの視点で見るかによる。信仰者にとっては贖いの日であり(ルカ 21:28)、恵みの時であることも盛り込まれている。「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。」(ルカ 21:18)
 この章では、その時になすべきこともいろいろ教えられている。罪の結果を刈り取る終わりの時が近づく中での、主の愛である。その一つ、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」(ルカ 21:8)イエスの権威を自分のものであるかのようにふるまい、「時は迫っている」〈詳訳〉と人々をあおる者たちが大ぜい出てくるが、「そんな人々のあとについて行ってはなりません。」と言われている。この章に書かれている教えをよく理解し、心に留めて歩んでいこう。


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フォローアップ礼拝メッセージ 提供:落ち穂の会

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2018年04月01日

5月の集い(お茶の水)

下記の日程で、5月の集いを開催します。

5月26日(土) 10:00〜12:00
お茶の水クリスチャンセンター 307


・「聖書で読み解くカルト化」講座
・相談会

相談がある方は、個別に時間を取ります。(要予約)

お問い合わせはCVSAまで。 
問合せ
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2018年03月26日

敵に向き合う知恵「聖書で読み解くカルト化」講座〜ルカの福音書20章より〜

『敵に向き合う知恵−イエスに立ち向かう律法学者たち−』ルカの福音書20章1〜47節(新改訳聖書使用)

福音を語るイエス

 ろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエスは、毎日昼は宮で教え、福音を宣べ伝えておられ、夜はエルサレムから東に「安息日の道のりほどの距離」(使徒 1:12、おおよそ1Km)にあるオリーブ山に戻って過ごされていた(21:37)。イエスが語られた福音とは何か。イエスが語られた福音=よい知らせは、神の国が近づいた、神は正しくさばかれる、悔い改めて神に立ち返れ、信仰をもって神に従いなさい、そうすれば救われるとイエスは民に語っておられた。その現れが、いやしであり、奇蹟であり、イエスが示す神の愛によって弱り果てていた人々は神を愛する力をいただいた。ローマの圧政、パリサイ人や律法学者たちの律法的な教えは、民を潤すことはなく、飢え渇いていた民たちはみな朝早く起きて、イエスの教えを聞こうと宮にいるイエスのもとに集まってきた(21:38)
イエスに立ち向かう指導者階級
 教えを聞いた民の心がイエスに向いていくので、宮での立場も危うくなってきた祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに立ち向かっていく。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」(20:2)何とおそまつな質問だろうか。イエスの並ならぬ権威を認めているのである。「誰の許しを得てやっているのですか」でも「なぜこのようなことをしているのですか」でもない。そのような質問のほうがまともである。祭司長、律法学者、長老たちは、神の権威は感じていたのである(神だからあたりまえであるが)。イエスが「神の権威」と答えれば、神に対する冒涜罪で死罪にできたのである。それを言わせたいがための質問である。「もう我慢がならぬ」という感じで徒党を組んで立ち向かおうとやってきたのである。
向き合うイエス
 そのような質問にもかかわらず、主イエスは無視して相手にしないわけでもなく、がつんと言い負かすわけでもなく、立ち向かってきた相手に、知恵のある言葉で答えられている。考える余地を与え、拍子抜けさせるように導こうとされているかのように言っている。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」(20:3-4)質問をかわして話をはぐらかしているわけではない。バプテスマのヨハネは、イエスを証言してこの世を去っている(ヨハネ 3:26では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「あなたが証言なさったあの方」とヨハネに言っていて、ヨハネは「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。」(ヨハネ 3:28)「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ 3:30)と言っている)。天からと答えたなら、イエスはそれ以上の人物だと認めないと矛盾が生じる。人からと答えると、民衆を敵に回す。民の上に立つことを好む彼らにそれはできない。祭司長らは「どこからか知りません。」(20:7)と答えている。民衆を教える立場の者たちであるのにかかわらず「知りません。」とおそまつな答えとなったのであった。
ぶどう園と農夫のたとえ
 イエスはこの後、ぶどう園と農夫のたとえを話された。またもや主人が何か(今回はぶどう園)を預け旅に出るという話である。旅先から収穫の分け前をもらうために主人が順に3人のしもべを送るが、農夫たちは袋叩きにしてひどいめにあわせ、傷を負わせて送り返す。どうしたものかと思案した主人は、愛するあととり息子を送れば、敬意を払ってくれるに違いないと遣わしたが(3度(3は神の完全数)送ったしもべにひどい仕打ちをされても、信じる愛がそこにある)、農夫たちは議論した結果、あととりを殺してしまえば財産はこっちのものだと殺してしまった。どうしてそのような発想になるのか、主人への愛もなければ、感謝も敬意もない。十分な収穫があっただろうに(主人が分け前を要求できる収穫があった)、もっともっとと元々自分の物でもないものにもかかわらず、欲に支配された結果である。息子を殺された主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園はほかの人たちに与えた、という話である。聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません。」(20:16)と言ったが、同じ話を聞いていた律法学者、祭司長たちは、「イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとした」(20:19)とある。悔い改めの機会は、いつも目の前に置かれていた。しかし、いつも神を説いていた彼らは神の権威を見ても、神を認めず、つまり、神の存在を信じていなかったのである。
エスカレートしていく計画
 イエスと議論しても勝てず、捕えようとしても、民衆を恐れてできない。機会をねらっていた律法学者、祭司長たちは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った(20:20)。しかし、イエスはそのたくらみを見抜いておられ(20:23)、またもや知恵で返され、間者は、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、イエスの答えに驚嘆して黙ってしまうしかなかった(20:26)
 間者が黙ってしまったためか、サドカイ人が復活についての質問を投げかけ、イエスはきっちり教えられている。その答えは、律法学者に「先生。りっぱなお答えです。」(20:39)と言わしめるほどであった(「先生」と言いながらも上目線であるが)。律法学者たちは「もうそれ以上何も質問する勇気がなくなった」(20:40)とある。
 そこで、今度はイエスが、質問をされた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身が詩篇の中でこう言っているのに・・・」(20:41-44)ご自身のことを言われているのだが、答えを求めているのではない。人知を超えている事柄ゆえに、神の不思議に目を向けさせ、考える余地を与えられている。
 民衆がみな耳を傾けているときに、イエスは弟子たちに律法学者たちに気をつけるよう、言われた。「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。」(20:46-47)
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フォローアップ礼拝メッセージ 提供:落ち穂の会

タグ: 悔い改め
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